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ルネサンスとは何であったのか―塩野七生ルネサンス著作集1―

塩野七生/著

1,760円(税込)

発売日:2001/04/13

  • 書籍

「ルネサンスもの」を書き続けてきた著者が、その三十年の蓄積を一気にほとばしらせたルネサンス論の真髄がここにある!

混迷の二十一世紀、いまこそルネサンスに学ぶべき時だ。フィレンツェ、ローマ、ヴェネツィアと、ルネサンスが花開いたイタリアの都市を順にたどりながら、古い殻に閉ざされた中世から脱して光と活力と創造力に満ちあふれていた時代を、よどみない語り口で読者の眼前によみがえらせる。著作集の劈頭を飾る待望の書下ろし。

書誌情報

読み仮名 ルネサンストハナンデアッタノカシオノナナミルネサンスチョサクシュウ01
シリーズ名 全集・著作集
全集双書名 塩野七生ルネサンス著作集
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 232ページ
ISBN 978-4-10-646501-7
C-CODE 0322
ジャンル 全集・選書、世界史
定価 1,760円

書評

波 2001年3月号より ルネサンス期と変わらぬ人間の本質  塩野七生『ルネサンスとは何であったのか』

葛西敬之

 私が始めて塩野さんの著作を目にしたのは、昭和42年の夏から留学を命ぜられ、アメリカで学生生活に逆戻りしていた時分で、「中央公論」連載中の「ルネサンスの女たち」であった。自分自身が生き方を暗中模索している「ひよこ」でしかなかったものだから、この物語の著者が自分と同年輩の女性とは夢にも思わず、一筋にルネサンス期を専攻しつづけた中年の人物に違いないと直感的に思い込んでしまった。「人は自身を尺度としてしか他人を測ることが出来ない」典型であった。

 法学部の学生時代、「政治・外交史」には興味をそそられたが、それはフランス革命以降の近代ヨーロッパが舞台であり、率直にいってルネサンスという時代は入試の世界史以上には馴染みのない世界だった。塩野さんの生き生きとしてパワフルな語り口に触れることがなければその儘で終わったと思う。「文芸復興」に視線を限定せず、その時期の世界情勢と諸国家の経済、政治、外交、軍事などを大局的に俯瞰するなかに運動を位置付け、個々の担い手の座標を明らかにして行く手法が、フランス革命時代で止っていた私の歴史的関心を、ルネサンス時代にまで遡らせてくれた。この時代に対する私の知識、共感は全て塩野さんの著作を読むことに依って得られたものである。

 このたび出版される『ルネサンスとは何であったのか』は30年以上に及ぶルネサンス研究の「総論」であろう。フィレンツェで花開き、ローマに展開し、大航海時代の精神的衝動となり、ヴェネツィアで終焉を迎えるルネサンスが俯瞰され、簡潔にまとめられている。これまでの「歴史物語」「小説」などの形式に加えた新しい試みとしての「対話方式」で話が進められる。厳密には「問答」様式という方が正確かもしれない。「問い手」は若き日の、「答え手」は現在の、どちらも塩野さん自身であり、その役割は入れ替わることがないからである。何れにせよ俯瞰図を書く遣り方としてこの方式は大変成功していると思う。分かり易くかつ面白い。「一つの言葉」「一つのエピソード」の方が、抽象化され概念化された説明よりも鮮やかな説得力を持つ。本書では一般化のなかに、これらをバランス良く織り交ぜることにより総論特有の単調さと退屈さを脱し、生き生きと語りかけることに成功している。

『ルネサンスとは何であったのか』を読みながら、現代もルネサンス時代も、そしてカエサルのローマ時代も、人間の本質は変わっていないという何時もながらの思いに捉えられた。「人間なら誰でも現実のすべてが見えるわけではない。多くの人間は見たいと欲する現実しか見ていない」というユリウス・カエサルの言葉が文中に二度にわたって引用されている。神を通して見、神の意に沿って考え、聖書の言葉で語るのが中世の、自分の目で見、自分の頭で考え、自分の言葉で語り、書き記すのがルネサンスの精神であり、それはローマ時代の英雄カエサルの精神でもあった、と著者は考える。

 しからば現代はどうだろうか。「見たいと欲する現実しか見ていない」即ち「自己催眠」は現代社会においても、いっそう顕著である。それどころか、大衆に媚びた結果、見てはいけない、あってはならない、口にしてもいけないタブーがやたらに増えた様に感ずる。「神」が「大衆」に「神職」が「マスコミ」に代わっただけで中世と同じではないか? おそらく何時の時代も大衆は同じだったのだ。時代精神の担い手としての天才や英雄を現代は持たないだけなのだろう。

 宗教改革についての対比も面白い。キリスト教社会が人間性の改善に役立たなかったのはキリスト(神)と信徒の間に聖職者階級が介在したからであり、それは神と人間が直接対し合うことにより改善されるとルターは考える。一方、マキアヴェッリやイタリアのルネサンス人は聖職者の世俗化による危険よりも、聖職者というプロのフイルターを通さずに信者が直接に神の声を聞くことの危険性の方を恐れたと著者は云う。今日、インターネット社会においては、国家や地域社会、さらには情報媒体としてのマスコミを飛び越え、情報でネットワーク化された市民が新しい世界を主導するという主張が盛んであるがどこか似ているものを感ずる。「歴史は所詮は人間だ」という著者の言葉は本質を突いている。

(かさい・よしゆき JR東海社長)

▼塩野七生『ルネサンスとは何であったのか』(「塩野七生ルネサンス著作集」1)は、四月刊
※第二巻『ルネサンスの女たち』は六月刊。以降、毎月刊行予定。

著者プロフィール

塩野七生

シオノ・ナナミ

1937年7月7日、東京生れ。学習院大学文学部哲学科卒業後、イタリアに遊学。1968年に執筆活動を開始し、「ルネサンスの女たち」を「中央公論」誌に発表。初めての書下ろし長編『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』により1970年度毎日出版文化賞を受賞。この年からイタリアに住む。1982年、『海の都の物語』によりサントリー学芸賞。1983年、菊池寛賞。1992年より、ローマ帝国興亡の歴史を描く「ローマ人の物語」にとりくむ(2006 年に完結)。1993年、『ローマ人の物語I』により新潮学芸賞。1999年、司馬遼太郎賞。2002年、イタリア政府より国家功労勲章を授与される。2007年、文化功労者に選ばれる。2008ー2009年、『ローマ亡き後の地中海世界』(上・下)を刊行。2011年、「十字軍物語」シリーズ全4冊完結。2013年、『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』(上・下)を刊行。2017年、「ギリシア人の物語」シリーズ全3巻を完結させた。

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