保元・平治の乱で勲功を立てた清盛は次第に昇進し、ついに太政大臣従一位に上り、天下を掌中に握った。日本六十六国の中、平家の所領は実に三十余国。帝や院も及ばぬ恐ろしい程の栄華である。
 しかし、その一方で平家一門の横暴な振る舞いも目に余るものがあった。白拍子の名人・義王への仕打ち、摂政基房に対する襲撃……。ついに大納言成親は平家を倒す策を練り始めた。



 成親謀叛の計画は行綱の裏切りによって露見した。仲間の西光は斬られ、俊寛以下の人々は次々に捕らえられた。
 清盛の怒りは激しく、謀叛の背後にいる法皇の処分を行おうとするが、重盛に諫められた。
 成親は遠国に流され斬殺。俊寛、康頼、成経の三人は鬼界が島に流されることになった。



 清盛は突然高倉帝を位から下ろし、三歳の東宮を新帝にした。安徳天皇である。これにより清盛は天皇の外祖父として後見し、もはや誰に憚ることなく独裁権をふるうことになった。
 これに対し入道頼政はひそかに高倉の宮を訪れ、平家打倒を説き、宮はついに意を決し、令旨を東国へ下した。伊豆の頼朝、木曾の義仲などが立ち上がった。



 治承四年、突然福原に都が遷されることになった。しかし都が遷されてから清盛のまわりには不吉な出来事が続いて起きた。
 そんな折、伊豆の頼朝が謀叛を起こしたという知らせが届き、清盛は激怒する。頼朝の討手として維盛、忠度が東国に向かった。



 治承四年、突然福原に都が遷されることになった。しかし都が遷されてから清盛のまわりには不吉な出来事が続いて起きた。
 そんな折、伊豆の頼朝が謀叛を起こしたという知らせが届き、清盛は激怒する。頼朝の討手として維盛、忠度が東国に向かった。



 木曾に義仲という源氏の武士がいた。この天下無双の勇者として知られる義仲が平家に謀叛を企てた。
 その頃、清盛が病に倒れた。激しい熱病にうなされながら「頼朝の首を取れ」と言い残し、ついに清盛は悶死した。



 義仲が越後に入り、都に迫ろうとしている。平家は義仲追討を決し、義仲が築いた火打が城を落として、はなばなしい戦果をあげた。しかし、義仲が八幡の社に戦勝祈願を捧げると形勢は逆転する。叡山も義仲の側に立つことが決まり、平家はしだいに窮地に立たされるようになる。



 法皇が義仲の守護のもと、都に還御された。法皇は「主上と三種の神器を都へ返し入れよ」と平家に院宣を下したが平家は承諾しなかった。神器のないまま四の宮が帝位についた。ついに京と地方に二人の帝が立つことになった。
 平家一門は、大宰府から屋島に渡り御所を作った。この頃、頼朝は征夷大将軍の院宣を受けた。
 西国の平家、東国の頼朝、都に跳梁する義仲。諸国乱れ果てたまま寿永三年を迎えた。



 頼朝が派遣した東国勢が都に迫っていた。義仲は直ちに軍勢を分けて応じたが、東国の大軍の前にあえなく敗走し、ついに討たれた。
 この間、平家は屋島から摂津に移り、一の谷に城を構えた。ここにも源氏が攻め寄せる。義経の夜討に不意をつかれた平家は、からくも逃げ延び屋島に向かった。



 法皇は生け捕った中将重衡と三種の神器の交換を平家に申し入れるが、宗盛も時忠もこれを拒んだ。重衡は法然上人との対面を許され最後は出家の戒を授けられた。
 維盛は、生きていても甲斐なしと思い、屋島を紛れ出て高野山に上り滝口入道を訪ねた。そして維盛は熊野三山参詣を終え、浜の宮から海に出て入水した。



 平家千余艘、源氏三千余艘。いよいよ壇の浦で決戦となった。しかし阿波民部成能が源氏に寝返る。これを見て四国、西国の武士たちも次々と主君を裏切り、ついに平家の運命も尽きた。二位尼は神璽、宝剣を持ち、帝を抱いて海に身を投げた。知盛は自らの運命のすべてを見届けたと思い入水した。
 元暦二年、源平の合戦はこうして終わりを告げた。



 宗盛は生け捕りにされ、鎌倉に引き連れられていった後、近江篠原で処刑された。また伊豆にいた重衡も奈良へ護送中、首を斬られた。建礼門院は大原の寂光院に庵を結んだ。
 六代は文覚の計らいでいったんは命を助けられたものの、文覚亡き後、鎌倉で首を打たれた。こうして平家の子孫は絶えたのであった。