波 2024年8月号

【特別企画】

本に憑かれた人 新潮社記念文学館訪問記/南陀楼綾繁

秋田県角館に屹立する(少し大げさに言っていますよ)弊社刊行物が世界でいちばん集まっている場所へ――

 2月の半ば、私はJR角館駅の前に立っていた。
 角館は秋田県の中央部、仙北市に属する。1620年(元和6)に蘆名義勝によって造られた城下町で、城があった古城山の南側に町が形成された。
 1656年(明暦2)に蘆名氏は断絶し、佐竹北家が明治維新まで二百年支配した。
 駅通りを西に進み丁字路を曲がると、武家屋敷通りに出る。広い通りの左右に、大きな屋敷が並んでいる。その一本隣の通りには平福記念美術館があり、日本画の平福穂庵・百穂父子などの作品を展示する。
 そこから二、三分歩くと、桧木内川に出る。堤には二キロにわたって桜の木が並ぶ。春になると、桜のトンネルが現れるという。
 風情のある町並みを駆け足で見てまわり、目についた喫茶店で休んでいると、「今年は雪が少なくてねえ」と女主人が云う。数日前には、五穀豊穣を願い、田んぼで火の付いた炭俵を縛りつけた縄を振り回す「火振りかまくら」という行事があったが、雪がないのが寂しかったそうだ。
 そういえば、駅前の一角に除雪された雪が積み上げられていたが、アジアから来た子ども連れのグループが雪山の上ではしゃいでいた。雪を見に来たのに、これぐらいしか残ってなかったのだろう。ちょっと気の毒だ。
 駅通りに戻り、松庵寺へ。境内に小田野直武の碑がある。小田野は秋田藩士で若い頃から絵がうまく、鉱山開発のため秋田を訪れた平賀源内に西洋画を指導された。秋田蘭画の祖とも云われる。
 高橋克彦の江戸川乱歩賞受賞作『写楽殺人事件』(講談社文庫)にも、この松庵寺を訪れる場面がある。主人公は幻の画家・写楽を秋田蘭画につながる画家だと推定するのだ。私はこの小説ではじめて角館という地名を知った。
 小田野は、1774年(安永3)に出版された『解体新書』の挿絵を描いたことでも知られる。前野良沢、杉田玄白らによる日本初の西洋医学書だ。小田野は平賀源内の紹介で、この仕事を引き受けたという。
 松庵寺から出てすぐのところには、角館ライオンズクラブが建てた『解体新書』の記念碑もある。その碑は仙北市総合情報センターの敷地に建っている。
 このセンターの中に、学習資料館(図書館)とともに入っているのが、今回取材する〈新潮社記念文学館〉なのだ。
 センターの入り口には、「新潮社々長 佐藤義亮先生」の銅像がある。1953年に建立され、以前の図書館の前に設置されていたものを、この施設に移設した。
 新潮社の創業者である佐藤義亮はこの角館の出身であり、あとで見るように、故郷の図書館に自社の本を寄贈した。それから百年以上経った現在でも、新潮社からの寄贈は継続している。日本を代表する出版社の刊行物が東北の小さな町に揃っているのだ。

「文化の遅くれ」た町から

 学習資料館の右隣に、一見、蔵のような建物がある。正面の外壁には新潮文庫の川端康成『雪国』の扉と冒頭のページが刻まれている。同書は1947年7月、戦後最初に刊行された新潮文庫だ。
 周囲の外壁には、吉村昭、後藤明生、三浦哲郎、田宮虎彦、色川武大ら作家が書いた色紙が埋め込まれている。角館を訪れて、講演した人たちだ。
 記念館に入ると、館長補佐の明平裕子さんらが出迎えてくれた。
 館内の展示は、秋田・角館と佐藤義亮、角館の紹介と秋田の文人、義亮・新潮社と文人、近代文学のあゆみなどのコーナーに分かれている。これらの展示を眺めつつ、佐藤義亮と新潮社の歴史をたどってみよう。
 佐藤義亮は1878年(明治11)、角館町に生まれる。実家は荒物屋を営む。父は新聞や雑誌を購読し、書画を愛した。その影響で義亮も向学心を持ち、家にある本を読みつくしたという。
 その頃の角館について、後年、義亮はこう書いている。
わしの子供時代のかくだての町家と来たら、文化の遅くれてゐることは全くお話にならぬ程だつた。(略)町で新聞をとつてゐる家は幾軒もなく、雑誌などはてんで入つて来なかつた。だから中央の形勢や出来事などゝは一切没交渉で、あの古色蒼然たる寒駅の中に、悠長に呑気に暮らしてゐたものだ」(『子供達に聞かせたおぢい様の話』私家版、1924年。高橋秀晴『出版の魂 新潮社をつくった男・佐藤義亮』牧野出版より引用)
 この町で育った義亮は、高等小学校卒業後、秋田市の責善学舎という私塾に入る。そこで文学書を読み漁り、博文館の雑誌などに投稿する。
 1895年(明治28)、義亮は友人二人と責善学舎を抜け出し、東京へと向かう。当時、秋田県内には鉄道が通っておらず、東北本線の黒沢尻駅(現・北上駅)まで峠を越えて、百五十キロ歩いたという。
 上京した義亮は、市ヶ谷加賀町の秀英舎(現・大日本印刷)の職工となった。重労働に堪えつつ、本屋での立ち読みと投稿を続けた。その投稿が秀英舎の支配人の目に留まり、校正係に回される。
 そこで尾崎紅葉らの作品の校正に当たるうち、自分でも文学雑誌を出したいという希望を持つようになった。そして1896年(明治29)7月に「新声」を創刊、その発行所である新声社を設立した。
 新潮社では、この年を創業年としている。2021年には創業百二十五年記念の社史が刊行されるはずだったが、膨大な作業量のためまだ完成していない。早く出してくれないと、すぐに百三十年が来てしまうのだが……。
 記念館の「義亮・新潮社と文人」コーナーには、国木田独歩、田山花袋らと並び、俳人の河東碧梧桐のパネルがある。新声社では碧梧桐の『俳句評釈』を出している。
 同書の原稿料をめぐるエピソードが興味深い。
 書籍大取次のU書店からの支払いは大量の小銭で、義亮はそれをそのまま碧梧桐の家に運んだ。
「『原稿料をもって来ましたが、一人では持ち切れないから、手を貸してください。』というと、同氏は二階から下りて来て、私と二人で、小銭をぎっしり入れた箱をもって階段を上って行った。室に落ちつくと、『君、金というものは重いもんじゃね。』と言った。
 始めて原稿を頼まれ、始めて原稿料を現実に手にした喜びは、この一言のなかに躍動している」(佐藤義亮「出版おもいで話」、佐藤義亮他『出版巨人創業物語』書肆心水)

校正畏るべし

「新声」は投稿雑誌で、読者との距離が近かった。編集者の高須梅渓はこう書く。
「日曜日や土曜日には、読者中の豪傑たちが一升徳利を提げ、竹の皮包の牛肉を携えて、社へ来ることが珍しくない。こうした連中で、新声社は梁山泊の観があるといわれた。まさに活気横溢だった」(新潮社編『新潮社一〇〇年』)
 新声社は地方に支部を設けることで、読者を獲得しようとした。その第一支部は秋田市にあり、第七支部は角館にあった。後者の幹事は、のちに作家・田口掬汀となる田口菊治である。
「一八歳の義亮が創刊した『新声』を、故郷秋田の文学青年たちは圧倒的な数と質の投書によって支援した。同時に、彼らは、『新声』によって育てられもした。また、秋田は、支部の数と活動の活発さでも群を抜いていた」(高橋秀晴『出版の魂』)
「新声」は評判となり、社員の数も増えた。そこに加わったのが、投稿者だった田口掬汀である。
 1900年(明治33)、掬汀は家族を角館に残し、上京。幼なじみでのちに画家となる平福百穂も翌年、上京した。
 掬汀の孫で、作家の高井有一は、祖父をモデルとして長編『夢の碑』を書いた。そこでは、掬汀が義亮と出会う場面が次のように描かれる。文中の「創美社」は新声社、「青汀」は掬汀、「田在」は義亮を指す。
「雨は一夜で去り、翌日は晴れて、晩秋の澄んだ陽射しが、創美社を訪ねる青汀の背に真直ぐに落ちた。上野から本郷を抜けて牛込新小川町まで、坂の多い道であった」「田在から送られた地図を時々取出して見ながら牛込の路地まで来ると、路上で数人の少年を相手に相撲を取っている男がいた。褌一本の裸姿である」(『新潮現代文学』第七十四巻、新潮社)
 東北訛りで話すその男が、田在鋭之助(佐藤義亮)だった。
 掬汀は「新声」で編集をしながら、小説を発表。その後、経営難に陥った義亮は同誌を手放す。1904年(明治37)に新潮社を創立し、「新潮」を創刊すると、掬汀は創刊号の巻頭文を書いた。
 掬汀は家庭小説の第一人者として活躍したのち、雑誌「中央美術」を創刊する。しかし、先輩の義亮が出版人として成功したのに対して、掬汀の事業は失敗に終わる。『夢の碑』で描かれるように、その晩年は恵まれなかった。
 掬汀に続いて上京した平福百穂も、「新声」の挿画部主任として活動した。義亮にとって、掬汀、百穂ら同郷の才能ある若者は頼りになる存在だったことだろう。
 なお、角館出身でファーブルの『昆虫記』を訳した椎名其二も、新潮社からバルザックらの訳書を出している。
 義亮は「新潮」を発行しながら、書籍の出版にも進出。相馬御風が訳したツルゲーネフ『父と子』は、翻訳書は売れないという定説を覆し、よく売れた。
 1914年(大正3)には「新潮文庫」を創刊(第一期)。トルストイ『人生論』、ドストエフスキー『白痴』などを刊行した。その後、円本ブームでの『世界文学全集』の成功を経て、多くのベストセラーを生んだ。
 新潮社が読者や著者に支持されたのは、企画の斬新さもあったが、校正の綿密さによって同社の本が信頼されたことも大きい。
 フランス文学者の山内義雄は、ある翻訳書を出す際に、義亮が校正を行なう様子を間近で見ている。
「校正が出はじめると、佐藤氏はおどろくべき丹念さで、一行一行雌黄(引用者注、校正の意味)を加えて行つた。(略)私の校正のほかにも、調査部から廻されてくるほかの出版物の校正に、一々朱筆を加えていた。まつたく人間わざとは思えない、そして、それをいかにも楽しんでいるといつた仕事ぶりだつた」(「空前絶後の出版人」、『佐藤義亮伝』新潮社)
 現在でも新潮社の校閲が優秀であることを、多くの著者が証言しているが、それは創業者である義亮からの伝統だったのだ。

高井家三代の物語

 展示室の奥には、企画展示のコーナーがあり、年に数回の企画展が開催される。これまでに、平福百穂、田口掬汀、石川達三、千葉治平、小田野直武、高井有一ら角館出身や同地を訪れた人物について、あるいは、新潮社に関する展示が行なわれた。
 取材時には「新館蔵品展 山田申吾書籍装幀画を中心に」が開催されていた。
 山田申吾は日本画家で、1950年版の川端康成『伊豆の踊子』(新潮文庫)などの装画を手がけた。
 また、1956年創刊の「週刊新潮」は谷内六郎の表紙画で知られるが、今回の展示には山田申吾の絵を使った第二号の表紙ゲラ案が展示されている。谷内に決まる前には、山田も候補のひとりだったのだろうか?
 一番奥にはミニシアターがある。そこで上映していた「志高く」という映像作品は、高井有一のインタビューを軸に、義亮、掬汀、百穂の友情を語ったもので、多くの人に見てほしいと思う。
 また、この部屋にはかつて新潮社のキャラクターだったパンダの「Yonda?」グッズも並んでいる。懐しい。
 反対側の部屋には、高井有一の書斎を再現している。また、『夢の碑』の原稿も展示されている。
 高井は1932年(昭和7)、東京生まれ。父・田口省吾は画家。戦時中、祖父の掬汀と同居したことは、『夢の碑』で描かれている。
 祖父、父が相次いで亡くなり、1945年(昭和20)、母、妹とともに角館の親戚のもとに身を寄せる。終戦後に母が川に身を投げて自死。その時期のことを描いた『北の河』で、1966年に芥川賞を受賞する。
 この年、久しぶりに角館を訪れた高井は、図書館長の富木友治と出会う。
 角館では1920年(大正9)に図書館を創立。翌年に開館した。1964年、文部省の方針で、全国に数カ所「農村モデル図書館」が設置された。開放的な運営を行ない、自動車による「移動図書館」を置くというもので、角館もその一館に選ばれた。
 富木友治の実家は旧地主で、母は平福百穂の妹だった。二十代で「北方文化連盟」を設立し、文学や民俗学などの分野で活躍した。1963年、前図書館の館長となり、翌年、農村モデル町立角館図書館の館長となった。
 この年、角館図書館後援会が設立され、その事業として、文化講演会を開始。最初の講演者は慶応大学の池田弥三郎だった。
 富木の情熱に打たれた高井は、1967年の文化講演会に登壇。その後、富木との交流が深まり、文化講演会に招く作家を紹介するようになった。館の外壁に並ぶ作家の色紙は、講演会のために角館を訪れた彼らが書いたものだったのだ。
 文化講演会は現在も続いており、2022年には川上弘美さん、2023年には朝井リョウさんが登壇した。
 2000年、角館町総合情報センター・学習資料館が開館。
 同館の建設を計画したのは、当時の角館町長・高橋雄七だった。高松市の菊池寛記念館を訪れた高橋は、自分の町にもこのような施設をつくろうと思ったという。
 高橋と旧知の間柄だった高井は、同館の名誉館長を引き受けた。ちなみに、同館が建つ場所には祖父・田口掬汀が晩年を過ごした家があった。
「今や祖父よりも五歳も年上になつてしまつた私は、文学館の出入りに、ふとあたりを見廻して、祖父の面影を思ひ出す事がある」(「わが町の文学館」、『日本近代文学館年誌 資料探索2』2006年9月)
 高井は2016年に亡くなる。没後、遺族から図書や原稿が寄贈され、「高井有一文庫」として整理中だ。

矢来町から角館へ

 佐藤義亮は、角館に図書館が開館した翌年の1922年(大正11)、図書四百四十三冊と書架を寄贈した。1951年に義亮が亡くなったあとも、新潮社から刊行された本が寄贈されてきた。
 もっとも、「昭和19年から27年まで一時途絶えたが、昭和28年1月から再開」(『角館図書館のあゆみ』)したとあるように、必ずしも出版された全点が寄贈されたわけではないようだ。
「以前の図書館では、寄贈された本を普通に閲覧室の本棚に並べて貸し出していました。中にはボロボロになったり、紛失した本もあります」と、館員の石川貴久子さんは話す。
 それらの本は、現在、閉架書庫に保管されている。
 たしかに、本の状態は悪く、新潮文庫の三島由紀夫などは、背表紙のオレンジの色がすっかり飛んでしまっている。
 しかし、なかには、葛西善蔵や加能作次郎らの「新進作家叢書」など、いまでは入手困難なタイトルが見つかる。これらの本が無造作に棚に置かれていたなんて、本好きにとっては天国みたいな場所だったのではないか。
「でも、閉架書庫は薄暗くて、なんだか怖い場所でしたけどね」と、石川さんは笑う。
 現在の施設に移って以降は、新潮社から二冊ずつ届くようになり、一冊は開架に並べ、もう一冊は書庫に保管するようになった。書庫には刊行順に単行本も文庫もコミックも並んでいるのが、なんだか面白い。
 新潮社からの寄贈とは別に、「佐藤俊夫文庫」もある。佐藤俊夫は義亮の次男で、1947年創刊の「小説新潮」の編集長を務めた(のちに会長)。内田百閒の『百鬼園戦後日記』(中公文庫)には俊夫の名前がよく出てくるが、たいてい原稿料か印税を前借りする件だ。「あごさん」というあだ名を付けられているが、その由来は不明。同文庫にはその百閒の『第三阿房列車』(講談社)や山口瞳『迷惑旅行』(新潮社)の献呈署名本があり、作家との交流の深さを感じさせる。
 書庫には他にも、田沢湖町出身の直木賞作家・千葉治平の蔵書や原稿類、平福百穂が装丁した「アララギ」のバックナンバー、富木友治の「花頂文庫」などが収められている。角館の文化の歴史が詰まっている場所だ。
 書庫を出て、学習資料館へと向かう。ここには近年刊行の新潮社の本が多く並ぶ。同社の単行本には緑のラベルが貼られ、他社の本とは区別されている。
 文庫、新書、クレスト・ブックスなどは、独立したコーナーになっている。カウンター脇には、若い世代に人気の新潮文庫nexのコーナーもあった。
 隣の記念文学館と併せて活用すれば、新潮社についての研究ができそうだ。そんな人が角館から現れるといいのだが。

角館に銘菓あり、名店あり

 見学を終えると、外はもう薄暗くなっている。
 石川さんの案内で、佐藤義亮の生誕地に向かう。商店の入り口に、「佐藤義亮生誕之地」という碑があった。2005年に建てられたものだ。
 そこから数分歩いたところにある本明寺には、佐藤義亮が眠る墓があった。
 作家の長田幹彦は、義亮の印象をこう記す。
「佐藤さんはがりがり坊主で」「書生ツぽみたいな素朴なところがあつた」「眼鏡の底で相変らずにこにこしてゐる。あのいたづら小僧のやうな愛嬌のある顔」(「佐藤社長を憶ふ」、『佐藤義亮伝』)
 また、山内義雄は義亮を「本に憑かれた人」だと評する。
 そんな義亮がいま生きていたら、昨今、厳しさを増している出版業界にどう立ち向かっているだろうか? などと想像してみる。
 帰りに、〈八田菓子舗〉で銘菓「おばこ餅」を買う。後で食べたが、しっとりとして美味しかった。パッケージの絵は、秋田出身の画家・福田豊四郎が描いたもの。福田は同じく秋田出身の農民文学者・伊藤永之介の著書の装丁を多く手がけており、新潮社から出た『湖畔の村』も福田の装丁だ。
 最後に、駅通りの〈ふくや〉へ。昼間に前を通ったときから目をつけていた。看板にある「焼鳥 餃子 焼肉」、どれもが素晴らしく旨い。電車の時間を忘れるほど、飲んで食べるうちに、角館の夜は深まっていった。

参考文献
『角館の巨人 富木友治 その仕事と生涯』新潮社記念文学館、2006年
『角館図書館後援会の歩み 結成五十周年記念誌』角館図書館後援会、2016年

(なんだろう・あやしげ)
波 2024年8月号より