お知らせ
『路地の子』についての訂正とお詫び
弊社刊行の『路地の子』(上原善広著・2017年6月15日発行)に関し、部落解放同盟松原支部の設立年度や設立を巡る経緯と時代背景、また当時、行われていた特例融資制度の内容――等について、部落解放同盟中央本部より複数の事実誤認があるとの指摘を受けました。この度の事実誤認につきましては著者のみならず、発行元である弊社による確認作業が十分でなかったことが原因であると考えております。併せて作品中に時代背景やそれに伴う社会の実情などを含め、説明が不足していた点も弊社の至らないところでした。
部落解放同盟中央本部及び関係者各位、また本書を読んで御不快の念を抱かれた方々にお詫び申し上げると共に、下記の箇所を訂正させていただきます。
本書をご購入頂いた読者の皆様にも、深くお詫び申し上げます。
2018年12月21日
上原善広
新潮社ノンフィクション編集部
(1) P102 14行目から16行目
水平社運動に参加しなかった「物言わぬ路地」であった更池にも、やがて解放運動の波が押し寄せてきた。国が本腰を入れて同和対策を始めるという話も支部設立の機運を高め、昭和三八年二月七日に部落解放同盟(解放同盟)松原支部結成大会を開いて支部を設立した。二年後の昭和四○年には、総理府の諮問機関から国が部落差別を公に認め、早急な解決が責務であると認めた「同和対策審議会答申」(同対審答申)が出された。
(2) P121 2行目から10行目
これだけの設備の店を構えるには、何らかの融資が欠かせない。幸い、八年前に同和対策事業特別措置法が公布・施行され、その一環として融資が受けられることになっていた。
さらに大阪では「同和事業促進協議会方式」(同促協方式)と呼ばれる独自の仕組みがあった。路地の代表者や、行政の関係者で構成される同促協を通じて同和対策事業を行うというものだ。そのため同和関連の融資を受けようとする場合、希望者は各地区の同促協に申請し、推薦を得て同和金融公社で融資を受けることになる。
「解放同盟をはじめとする運動体が事業を私物化したり、逆に行政側が同和事業の主導権を握ったりすることも避けられる」というのが同促協方式が作られた理由だが、それは建前で、実際には協議会の理事には解放同盟員が多くついていたので「部落解放同盟が同促協を牛耳っている」、「行政の下請け団体」、「解放同盟大阪府連とは表裏一体」などと、共産党などから批判された。
そんな事情も知らない龍造は、窓口でもない市役所へ融資の申し込みに行った。
作業着に長靴、前掛けだけ外した姿の龍造が、窓口で申し込みをすると、小柄なメガネをかけた若い職員が言った。
「上原龍造さんですね」
「そうです」
「あのー、申し訳ないんやけど、あんたに同対の融資受ける資格はあるんですけど、これは解放同盟を通じて同和金融公社に申し込まなアカンのです」
(3) 同 14行目
更池にできた部落解放同盟の支部長となった山口豊太郎の自宅は、
(4) P122 5行目
「武田剛三さんが係をやってはるから、そこから申し込んでもらわんとアカンのです。私らの一存ではでけんのです」
(5) 同 15行目
更池に支部が設立されたのも知ってはいたが、
(6) P123 12行目
「いや、だから係しとんのは武田さんなんですわ」
(7) P123 15行目と16行目の間に追加
大阪では前述の通り「同促協方式」が導入されていたので、武田剛三が直接の窓口ではない。しかし剛三はまだまだ松原支部では下っ端ながらとりあえず受付係についていた。事情を知らない若い職員は、軽い気持ちで剛三の名前を出したのだが、龍造は武田の名を聞いただけで、憤怒のあまり爆発しそうになった。
(8) P130 8行目から10行目
そんな更池は、昭和三八年に解放同盟の松原支部として結成されたが、これは同和対策審議会答申が政府内で出される機運をつかんでのことだったと言われている。支部結成から二年後、答申は昭和四○年に出されている。
答申が出ると、さらに大阪各地でいくつか支部が結成されるのだが、中でも昭和四四年(一九六九)に同和対策事業特別措置法が成立した時にできた路地は、俗に「六九年組」と呼ばれた。
(9) 同 13行目と14行目の間に追加
更池は「六九年組」ではなかったが、戦前の水平社時代から解放運動が盛んだった隣の路地、向野に比べると、運動後進地区であったことは否めない。これは地域住民の方向性の違いから起こったことだが、もう一つの要因として、昔から更池では食肉関連事業が盛んだったので、解放運動の必要性を今ひとつ感じていなかったからだとも言われている。
(10) 同 14行目
後年、部落解放同盟全国中央本部執行委員長に就く上田卓三は、更池に移り住んでいた。
(11) P132 2行目
地も大阪市内にあっては異質な路地で、解放同盟トップにのし上がる上田という代議士を生む一方、
(12) P133 7行目から8行目
そんな上田が、運動先進地区であった向野ではなく、運動としては後進だった更池に移り住んだのは一見すると意外に感じる。
(13) 同 10行目から11行目
阪の路地でも珍しく、食肉という有力な地場産業をもつ路地だったからだと見る関係者も多かった。
(14) 同 19行目からP134 1行目
上田が解放運動の中でのし上がるきっかけとなったのは、「大阪府中小企業連合会」という団体の創設だった。
(15) P134 2行目
することが重要だったのである。大阪の路地を中心とした中小企業を発展させていくためにも、食肉という強
(16) P135 3行目から6行目
巡って、解放同盟と共産党系とに分裂していた。共産党は「公正・民主的な同和行政」を公約に掲げていた。
同じ路地の中での分裂と対立は、一見すると大局的には不毛にしか見えない。
しかし、両者の間には、同和対策事業という共通課題があった。津田市政は、この同和対策事業を争点とした結果、生まれたのだといっても過言ではない。
(17) P155 11行目から13行目
輸入された牛肉は、まず畜産振興事業団という特殊法人を通って、解放同盟系の府同食に卸され、さらに府同食の各支部に割り当てられる。そこから各組合員(同盟員の食肉業者)に配られるのだが、