島尾敏雄
昭和二十九年九月三十日 この晩より蚊帳つらぬ。 十月一日 十月二日 十月三日 気温 21.2°〔午後二時〕 午前父神戸へ帰る。 二日夜よりミホと子供たちも共に。ミホ気がふれそうになり、台所板の間で水をぶっかけ頬をうち治る。(頭が鉄釜のようになった時の話、鉄路を枕に列車の来るのを待った時の話) 十月四日 気温 21.7°〔午後〕 風あり 午前、石川邦夫の所を訪れる、石川君休職(市川小学校)の事情、エルンストの画集借りて帰る、(一時頃)ミホ着物を着て迎いにやって来る。 午後事件の限定、トドメ、爾後の処理の話合い、ミホ、ぼくに万年筆を新調する。ラジウム湯で体重を計ると13貫650匁。夜ミホ気がふれそうになり、一緒に外を歩き廻り、頬を叩く、墓場と、不気味な猫をみて、気が沈まり、駅前通りで氷水(苺)を食べて帰宅(12時過)、二人共熟睡する。 十月五日 気温 〔21.1°〕 晴 朝食パン、目玉焼、チーズ、ココア、りんご、陽のあたる縁側で話し合う、(も早陽なたが恋しい)二人共次第にさっぱりした顔付、お互を深く知ったという事、午後はじめて、ベッドで午睡、市川の石井節子来訪。(その子供と、夫君の舎弟氏の夫人とその子) マヤとラジウム湯、伸三せき、龍角散をのませるととまる。夜ミホ、ひとりで風呂に。堀辰雄アルバム、エルンスト画集(彼女はそれを護る)。10時半就床。 (ミホに学校に電話をして貰い、今週中欠席させてほしい旨申入れ)。(ミソ屋特別販売日で景品がいつもの二倍、でもあんまり沢山ならんでいるのでいつもなら待って買って来るのに、早く帰った方がいいと買わずに帰って来る。ふろ場でも通りでも人にやたらにお辞儀し、おしゃべりしかけたのに、つまらなくなって黙っておじぎだけしたとミホ。気持やからだがとびそうに軽い)、今夜まで、つづけて按摩を行う。 十月六日 曇 気温 17.5° 朝の目覚めのミホのワイワイ。[註 気持が亢るという意の奄美の言葉] 伸三の夢、――玉のお墓が動いて玉が生き返って来たのでミンナを呼んで見せようとする。ぼくの夢、――海辺に行く(♯1記録[註 別冊夢日記に記録の事])、ミホの夢、――やはり海辺、おぼれようとする色々の人、波にのまれ行く中にオジイサマ(父)が手を振ってのまれて行く。 朝食、食パン、ココア、チーズ、りんご。ミホは浜御殿[註 磯御殿のこと]の、ナスのやきものを何遍も見に行った[註 茄子の置き物の紫紺色の美しさにひかれて度々見に行った時の話]、生活用品展のようなものを見たいとミホ言う。ベッドで眠る、12時近く目覚めるとミホが「歌」を裏で飯をたきながら歌っている(長いこと歌わなくなっていた)。二つの夢、手紙の♯2夢とミホの♯3夢(記録)。ジーインとした頭から全身の疲れがひいて行く。昼食後ミホと話す(色々話したのに忘れてしまう)外泊せぬという事、シマでの生活の理解、ジュウ[註 父上という意の奄美の言葉]の事、確認。マヤの存在、マヤの直感的行為。オトウサンワルモノジャナイノヨネ。ぼくの我儘(女中が見ていたぼく)未見の手紙(ミホが見たという)は幻影ではないか。伸三のタマが生き返るという考え、近頃しきりにそれを言う、隣の利行ちゃんにも言っている。 【編集部註】故島尾敏雄は、少年時代から没する数日前まで、七十年に及ぶ克明な日記をつけていた。ミホ未亡人の許可を得て、編集部が数十箱のダンボール箱を開封、全日記のコピーをしたのが、平成九年八月と九月。うち、昭和二十年六月から敗戦を挟んで九月までを「加計呂麻島敗戦日記」として、また昭和三十年一月から十二月までは「『死の棘』日記」として小誌に掲載したが、今回発表するのは、それに先立つ三カ月間の日記である。周知のように「死の棘」は「私たちはその晩からかやをつるのをやめた。」という一行から書き起こされており、これでもって「『死の棘』日記」は全てが公開されたことになる。なお、単行本「『死の棘』日記」は、以上にミホ夫人と長女マヤさんの書き下ろし手記を加えて、本年夏小社より刊行の予定。 |