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Marathon―― 柳美里氏の42・195km

 3月17日、柳美里氏が東亜ソウル国際マラソンに出場した。ソウル市内中央部を1万2千人(招待選手30人)が走る本格的国際大会だ。準備中の新聞連載小説でマラソンランナーの主人公を描く柳氏は、自分で体験しなくてはランナーの内面を描くことはできないと、昨年末よりプロ・コーチの指導を受けていた。だが、いくら祖父が幻の東京五輪(1940年)に出場を有力視されていたマラソン選手だったとはいえ、初めてのフルマラソン。前日に車でコースの下見をしたが、42・195キロはとてつもなく長いと実感した。
 そして当日。光化門一帯にアナウンスと音楽が大音響で流れ、お祭りと戦場がいっしょになったような空気を号砲が切り裂いた。柳氏のスタートを見送ると、応援団はただちに車に乗り込み、10キロ先の応援地点に向かう。予定通過時間がきた。時計をにらみながら不安が募る。そこへ柳氏が到着。実は、7キロ過ぎには膝に激痛が走っていたとのことで、既に厳しい状態だったはずだ。だが、10キロ段階の柳氏はまだ応援団と言葉を交わす余裕があった。その後、応援団は車と地下鉄を組み合わせて移動し、主要個所で柳氏に声援を送り、飲料と食料を補給した。最後の応援は35キロ地点。練習でも走ったことのない未体験の領域だ。制限時間5時間を切れるかどうか、ぎりぎりのペース。柳氏は身体の限界を超えて気力だけで走っている。
 ゴールのオリンピック・スタジアム前で祈るような気持ちで柳氏を待つ。万一リタイアしていても知る由はない。だが、柳氏はやってきた。ペースは最後まで落ちていなかった。応援団も最後の瞬間を見届けるべく、全力疾走でスタジアム内に入る。トラックをかける柳氏が小さく見え、やがて近づいてくる。そしてゴール。同時に崩れ落ちる。4時間54分22秒の体験が作家の中でどう発酵し、結晶化するのか、刮目して待ちたい。

Adieu―― 来し方ばかり

来し方ばかり
「そうだね、あるのは来し方の思い出ばかりってことだね。じゃ、また来れたら来るよ。まだ一度や二度は来るかもしれんよ。じゃ」
 そう言って古山さんは腰を上げました。たぶん、まだ一度や二度は来るんでしょうね。

 小誌での最後の作品となった「来し方ばかり」(平成13年11月号)は、こんな風に終わっている。この作品を書くために、古山さんは、編集部の心配をよそに、昨年7月の暑い盛り、相模原から遥か仙台まで、自ら小さな車を運転して、取材旅行に旅立った。
 徹夜の執筆、精力的なゲラ直しを終え、「これは「真吾の恋人」の続編。新潮にはさらに続きを書きたい。それと、死んだ同期の友人のことも書きたい」と言われた。
 小誌は、今年3月末の締め切りで、続編を依頼。3月初旬、電話すると、心なしか気落ちした声が返ってきた。
「ヘルペスの手術で、一週間ほど入院して、今日退院したばかりなんだ。まだ、点滴をしている。先生は、元気になったら、また執筆は出来るっていってくれたよ。だから、今回は無理だけど、体力が回復したら書くよ」
 この電話から一週間余り後、新聞に訃報が載った。古山さんは、2年半前に亡くなった明子夫人の葬儀の後、戒名も決め、位牌も明子夫人の隣に既に作ってあった。葬儀は、近親者だけの密葬として、ひっそりと行われた。

Coterie―― 同人誌「重力」の創刊

 この2月、同人誌「重力」が創刊された。メンバーは、市川真人・井土紀州・大杉重男・可能涼介・鎌田哲哉・西部忠・松本圭二の7人である。映画監督、劇作家、詩人、経済学者、そして批評家。一癖も二癖もある面々が揃い、「今日の諸学芸の不振の根本的原因が、各ジャンルの閉鎖性と排他性にあり、あるジャンルは自分以外の領域との討論と交通が生み出す知的緊張を全く持ちえていない」という主張の下、各人の思うところを存分に表現している。
 持ち回り制である第一回編集責任者は鎌田哲哉氏。氏が掲げた「経済的自立は精神的な自立の必要条件である」というテーゼは喧喧諤諤の議論を呼んだが、ともあれ、各人が負担した10万円の出資金が売上によって償われるかどうかは興味深いところ。文芸全般が追い込まれている苦しい状況を踏まえ、DTPや流通の問題などの基礎条件まで視野に入れて独立系のメディアの可能性を追求する姿勢が印象的。さまざまな形で地域通貨の問題を展開している西部氏の参加により、同人雑誌と地域通貨という問題が、また新たな光を浴びたと言っていいだろう。
「ハイブリッド・マガジン」というコピーそのまま、さまざまなジャンルの作品が一冊の雑誌の中に封じ込められている。横書き部分を含む松本圭二の長篇詩「アストロノート(抄)」と井土紀州・吉岡文平のシナリオ「ブルーギル」など、このような雑誌でなければ同居はありえず、秀実・内藤裕治(『批評空間』代表)・古井由吉という独立系メディアの先輩へのインタビュー等も含め、刺激的な誌面となった。彼らが起こした波がどこまで広がるか、要注目である。

Front―― 町田康展の大胆繊細

 第9回萩原朔太郎賞の受賞者である町田康氏の展覧会が、「言葉の生まれる瞬間」と題し、前橋文学館で開催されている。「フランソワ・ヴィヨンの再来」(天沢退二郎)と絶賛されたユニークな詩の世界がどのように表現されているか、楽しみに足を運んだが、期待は十二分に充たされた。
 まずは「『土間の四十八滝』in前橋」と題されたコラージュ写真群が出迎える。「家郷でない場所で俺の心は凪いだ」という言葉がアクリルの柱に記されているが、前橋のさまざまな場所に詩行を書き抜いた板が埋め込まれ、新たな風景を形作っている。“詩によって異化された町並み”とでも呼ぼうか。新聞広告の裏や原稿用紙にボールペンで書かれた文字によって、身体性のあり方が見えてくる。
 圧巻は、ポラロイド写真によって埋めつくされた「視線の部屋」である。詩人本人の眼によって切り取られた風景の中に立つと、眩暈がしてくる。各所に朗読を聞くためのスイッチが仕込まれており、どこから町田氏の声が飛び出してくるか油断がならない。また、今は幻となっている主演映画の山本政志監督「熊楠」や、貴重なライブの映像が随所で流れており、ファンは必見である。荒木経惟氏の写真や逆柱いみり氏の画「町田康の作品世界」など、現代詩の枠を爽やかに外した大胆かつ繊細な展示で、興趣は尽きなかった。常設展で見ることができる萩原朔太郎の世界との隔たりと意外な近さを、ぜひご確認頂きたい。
(前橋文学館 027(235)8011 5月26日まで開催)

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