佐江衆一
巻の一 生国をいで大宰府へむかうの事 ――亡き母者に会える……。 野末を吹きわたる風は剃髪の頭にまだ冷いが、道の辺のあちらこちらに紅梅白梅がほころび、青草の萌えいでた水辺の藪でときおり鶯の笹鳴きがする。 「これ、随縁、ご覧じろ。お父上が、あれあのように、門の外まで出てお見送りじゃ」 長柄の端折傘を墨染の衣の肩にして、坂道を先立って登ってゆく母方の叔父の善入が振りかえって声をかけたが、小坊主の随縁は、はいと答えただけで立ち止まりも振りむきもしなかった。 出立の挨拶をして館の門を出たとき、見送りの人びとへはあらためて別れの合掌を送っていた。口髭と顎鬚をたくわえた痩身の父は、折烏帽子に萌黄の狩衣姿で小刀を腰に母屋の広縁に座し、かたわらに伯母の法善尼が念珠をまさぐり、すこし離れた蔀のかげに幼い弟を膝にのせた継母、庭には大勢の郎党にまじって継教寺の老和尚が案じ顔に佇み、三歳年上の兄の通朝は野太刀をたずさえて父にちかい縁先にいて、見送ってくれたのである。 まぶたに残るその光景を振りきるようにして歩き出してしばらくたつというのに、父ひとりがわざわざ門外にまで出て見送っているというのか。 ――めめしいではないか、武門の長ともあろう父上が。 ふっくらとした頬にまだあどけなさが残る、数えて十三歳になったばかりの随縁は、うれしくもありながら肚裏でそう思った。 この早熟な少年は、傷つきやすい鋭敏な感性をもつ一方で、荒あらしいまでの剛毅な性をそなえていた。小さな虫の死にも涙する感じやすさと優しさは母ゆずりのものだが、源平の争乱で源氏方の河野水軍の将として瀬戸内で勇名をはせた祖父河野四郎通信の剽悍な血を、たれよりも濃くうけついでいたのである。 河野一族は、かつて伊予の内陸を支配すると同時に瀬戸内海を航行する商船を襲って荷を掠奪する海賊衆であり、朝廷の法を乱す悪党であった。その海賊衆・悪党の血が、少年の体内に脈々と流れていた。 少年は、後鳥羽上皇が配流の地隠岐で没した延応元年(一二三九)、河野七郎通広の次男として伊予国風早郡河野郷別府の館で生まれた。幼名を松寿丸といった。母は大江氏の娘。父は如仏と号して京の都で修行ののち国許に帰って道後の宝厳寺内の塔頭に隠棲したが、還俗して別府七郎左衛門尉と名乗って河野郷別府に館をもっていた。 松寿丸は、いくさごっこの好きな腕白者として育った。 ――父上をしのぐ一廉の武将になってみせる。 武門に生をうけた男子として、無邪気にそう思っただけではない。幼な子ながら、人柄の穏和な父がなにやら頼りなげにみえた。 十歳の秋、母が急の病で身罷った。木立の梢に散り残る黄葉が、ひとひらふたひら、あるかなきかの風に舞う晩秋の日昏れどきであった。 松寿丸は人まえで決して涙をみせることはなかったが、父と兄ばかりでなく、母のように優しくしてくれる父方の伯母法善尼とも口をきかなくなった。 |