本・雑誌・ウェブ
贋世捨人

車谷長吉

 


 西行に、こんな歌がある。
  (世をのがれけるをりゆかりなりける人の許へ云ひおくりける)
世の中を反き果てぬといひおかん思ひしるべき人はなくとも
心から心に物を思はせて身を苦しむる我身なりけり

 二十五歳の時、私は創元文庫の尾山篤二郎校註「西行法師全歌集」を読んで発心し、自分も世捨人として生きたい、と思うた。併し五十四歳の今日まで、ついに出家遁世を果たし得ず、贋世捨人として生きて来た。つまり、私は愚図であったのだ。世捨人として生きたいと願いながら、も一つ決心が付かないとは何事であろうか。
 昭和三十六年春、私は県立姫路西高等学校の入学試験に落第し、土地では程度が一番低いと言われていた市立飾磨高等学校に強制的に回された。つまり、その時分姫路地方には公立私立合せて高等学校が十四あり、その中で一番上から一番下へ突き落とされた。私は十五歳だった。これが実質的に私の人生のはじまりだった。この失意はいまに私の存在を刺し貫いている。
 翌昭和三十七年夏のある日、松原村の伯母が家へ遊びに来て、伯母の家の近所の若い女が、姫路県立病院耳鼻咽喉科で鼻に膿が溜まる蓄膿症の手術を受けたら、蓄膿症はからりと治ったが、鼻のすぐ上の視神経を医者が誤ってメスで切断し、目が見えなくなった、という話をした。その秋江という若い女のことを、私は伯母の家へ遊びに行った時に見知っていた。理髪店の娘だった。私は伯母の話を聞いて恐ろしいと思うた。私もまた子供の時分から、いつも鼻の孔から青洟を垂らしていた。青洟をセーターの袖口で拭くので、袖口の毛糸が腐っていた。つまり、私もまた蓄膿症だった。鼻の奥から脳髄の後ろへ針金を一本通したような鈍痛が絶えず走っていた。
 私は伯母の話を聞いた時、恐いと思うた。が、その恐怖に逆に弾かれるように、私もまた姫路県立病院耳鼻咽喉科で蓄膿症の手術を受ける気になった。姫路県立病院は、白鷺城のそばである。数日後、学校を休んで病院で診察を受けると、だみ声の男の医師が「お前、親の病気を引き受ける気ィにならな、あかんわ。重症や。」と言うた。医者は私の病いが、親からの遺伝性のものだと言うているのである。私の父は蓄膿症だった。蓄膿症は正式にはアレルギー性副鼻腔炎と言うて、鼻腔の両側にある副鼻腔と、さらに重症になれば目の上、すなわち額の裏側にある副鼻腔にまで膿が溜まる病気である。副鼻腔を構成している頭蓋骨の表面が爛れて、その腐った骨から不潔な膿汁が分泌され、絶えず鼻孔、口腔、咽喉にたれ流れて来るのである。従って鼻だけでは呼吸することが出来ず、口で呼吸することを強いられて来た。鼻腔の両側の副鼻腔を手術するのは、そう困難ではないが、秋江の場合は、目の裏側の副鼻腔まで切開しようとして、医者が目の神経を切断してしまったのだった。私もまた目の裏側の副鼻腔にまで膿が溜まっているという診断だった。
 私は盲になるんやったら、なったらええやないかという気だった。どこまでも自分の失意をこじらせてやる積もりだった。蓄膿症はすべてが遺伝性ではないが、私の場合は先天性蓄膿症なのだ。だみ声の医者は、右の頬に赤黒い【血/ち】【黒子/ぼくろ】があって、その先っぽに剛い毛が生えていた。私の父とそっくりだった。それが私に憎悪を起こさせた。私は出し抜けに訊いた。
「先生、あんたが松下秋江の手術を失敗したんか。」
「いやッ。わしと違うで。」
「……。」
「あんた、いきなり何を言うんや。」
 医者は明らかに狼狽していた。ひょっとすればこいつがしくじったのかも知れへん、と思うた。私はこの医者に自分の運命をあずけて見ようと思うた。
 それから数日後、私は一人で病院へ行った。午後六時から手術ははじまった。顔面の肉と上顎の歯茎の付け根をメスで切り裂き、顔面の肉を上へめくり返して、副鼻腔の腐れた骨の表面を削り取るのである。無論、麻酔はしてあるが、併し私は麻酔がよく効かない体質で、医術用の鑿で削られるたびに、頭蓋骨が罅割れるような劇痛を覚えた。口腔が血みどろである。