浅田 彰×島田雅彦
ザビエルに導かれて 浅田 前にロシアを軸に二○世紀の夢と挫折を振り返る話をしましたが、今日は島田さんの『フランシスコ・X』をきっかけに大航海時代以後五世紀あまりの歴史を振り返ってみてはと思います。実際、いわゆる社会主義圏が崩壊し「第三世界」も雲散霧消して資本主義が世界を覆ったいま「グローバル」という言葉がいたるところで語られていますけれど、グローバルな意識というのはそもそも大航海時代に発生したわけで、それを現代とつなげて考えることは非常にアクチュアルだと思うんですね。そこで象徴的なのが一四九二年でしょう。この年には、コロンブスがアメリカを発見すると同時に、スペインでカトリック教国(カスティーリャ=アラゴン連合王国)によるレコンキスタ(再征服=国土回復)が達成されて、最後のイスラム教国だったグラナダが陥落する(ただしすべてのイスラム教徒の追放はかなり遅れる)と同時にユダヤ教徒も追放される。それまではイスラム教徒もユダヤ教徒もキリスト教徒も入り混じって住んでいて、その結果すばらしい文化の成熟が見られたにもかかわらず、そういう他者を追い出して、カトリック教国として閉じるんですね。だから、外においてはコンキスタドール(征服者)たちにつながる運動の最初の一歩をアメリカ大陸に記すと同時に、内においてはレコンキスタによって他者を排除し、(まだ近代の国民国家ではないとはいえ)同質性を持った国家をつくることになるわけです(もうひとつ付け加えると、この年はまた序文に「言語は帝国の伴侶である」と謳う『カスティーリャ語文法』が出た年でもあるんですね)。それらのことが同時に起こったというのが非常にシンボリックで、それはただちに現在の状況にまでつながってくると思うんですよ。『フランシスコ・X』には、そういう新しい歴史観がヴィヴィッドに反映されています。たとえば、マラーノ(豚)と呼ばれた隠れユダヤ教徒の商人が重要な脇役として出てきたりする。従来もこの時代のことはいろいろな作家によって書かれてきたわけですが、島田さんの新作はその後の歴史学の流れも取り入れていっそう立体的な歴史小説になっていると思いますね。 島田 この小説を執筆し始めたのが一九九九年で(二○○○年一月号に第一回掲載)、ザビエルが日本に来た一五四九年から数えてちょうど四五○周年でした。鹿児島で記念イヴェントがあり、ザビエルをテーマに戯曲を書いて上演してくれないかという依頼があったので、戯曲を書き、演出もして、あろうことか主役のザビエルまで演じてしまった(笑)。それでギャラは七万円という、もうほとんどだまされたとしか思えない出来事があったんです。元を取るには小説を書くしかないので、本気で勉強してしまいました。今でもザビエルの遺体はミイラになってゴアの教会に安置されていますし、奇跡の認定を行うために遺体から切り離された右手は、アニバーサリーな行事があると旅をするんですよ。来日四五○周年でも、ファーストクラスに乗ってきたかどうかは知らないけど(笑)、右手だけ来日してミサを仕切ったりしていました。小説の発想は、その右手から始まったんですよ。カトリックでは、遺体が腐らないことによって奇跡が認定されます。ザビエルが死んだのは中国でしたけども、右手だけはヨーロッパに帰ることができた。そして、死後七○年目ぐらいに奇跡が認定されて聖人になるわけですけれども、聖人認定に至るまでの時間は、異例に早かった。普通は、記憶から抹消されかかったところで奇跡認定されるものです。しかし、こんな短い期間に聖人認定されたのは、大航海時代の中でイエズス会の各地への積極的な宣教の功績が認められたからでしょうが、それ以上にカトリックの栄光を盛り上げたかったのでしょう。また、この時期にコペルニクス的な天文観が世界観のレベルに降りてきて、人々の時間と空間の感覚が大きく変わった。教会の権威を保つには奇跡をたくさん作り出すしかなかった。私はカトリックではありませんし、そもそも宗教的な人間ではない。通例、日本でもどこの国でも、聖人の評伝を書く場合は、どうしてもカトリックへの共感に守られた聖人像が前面に出てくるものです。残された記述や評伝的なものも、かなりの分量がありますけれども、聖人としてのザビエルの足跡を追いかけていくというタイプのものばかり。私には聖人伝を書く資格はないので、ザビエルが垣間見たもの、あるいはザビエルが生前に関係を結ばざるを得なかったものの方に、どうしても興味が及ぶ。 無論、商人たちもまた記録を残しています。しかし、おおむね自己の栄光を称える傾向が強く、実際のところ商人たちがどんなことをやってきたのかは、戦場で軍人が何をしたのかが分からないようによく分からない。そこはフィクションライターの想像力を駆使するほかないのですけれども、今この期に及んで大航海時代のことを考える時に、モチベーションとして現代に生きている感覚は当然反映してきますね。この小説自体は九・一一の前に書いてしまいましたけれども、あの同時多発テロ事件が引き起こされる直接的な引き金にもなっているアメリカの一極支配、あるいはグローバリズムに対抗する理念は果たしてつくり得るか。テロリストとは別の方法で、理性的にグローバリズムのマイナス面を補うシステムを考え得るか、という問題は、当然テーマの中に入ってきました。幸い、大航海時代と、それによって引き起こされた世界経済の成立及び重商主義の顛末を、我々は歴史をひもとくことにより多少理解しています。過去にあった、重商主義の行く末を振り返ることで、グローバリズムの未来はどうなるのかという予測につなげられないだろうかと考えてみたんです。これが一番大きな執筆の背景ですね。 |