保坂和志
1 伯母が死んで私と妻の二人が世田谷のこの家に住むようになったのが去年の春のことで、その秋に友達が三人でやっている会社をここに移し、今年の四月からは妻の姪のゆかりも住むようになったので、勤めに出ている妻をぬかして昼間は五人がこの家にいることになったのだけれど、私の知っているこの家の住人の数と比べたらまだずっと少ない。 もともとここには伯父伯母と四人の子どもの六人がいて、そこに私が小学校にあがる前の二年間、昭和三十五年から三十七年にかけて私の家族が同居していた。船員をしていた父が半年から場合によっては一年ちかく家を空けるのを不用心だと思った祖父母や伯父夫婦の判断でそうすることになって、母と私と生まれたばかりの弟を合わせて九人というのが、私の記憶の中にある自然なこの家の人数で、子どもの頃に住んだ家というのは無条件に建物とそこに住む人間の関係の基準になる。 あの頃は、三部屋並んでいる二階の真ん中の八畳に母と私と弟の家族がいて、一番奥の六畳が従兄二人の部屋で、一階の離れた奥の八畳が従姉二人の部屋で、一階の中心の二間がみんなの集まる居間と伯父夫婦の寝る部屋――と一応そういうことになっていたが、昭和二十三年に建てられたこの家は全部の部屋が畳で、部屋と部屋の仕切りはすべて襖なので、はっきりと用途を決めて建てられているいまの家とは、人と部屋の関係が全然違っていた。 時代も昭和三十年代半ばのことだから、部屋をあらかじめ決めたとおりの用途に使おうなんて律義さは人間の側にも育っていなくて、早い話が子どもがいればそこが子どもの部屋になり、布団を敷けばそこが寝室になった。下の清人兄は上の英樹兄に泣かされると隣りで寝ている「叔母ちゃん」つまり私の母の横で眠り、私は私でしょっちゅう奈緒子姉と幸子姉の寝ている奥の部屋で寝ていた。だいたいうちの家族がここに住みはじめた最初の頃は一階の奥の部屋は従姉二人でなくて私たちの家族がいたのだが、それがいつの間にか(というのは、私の記憶の中でいつの間にか)従姉二人の部屋になっている。 それで小学校に入る少し前に私たちの家族は探していた手頃な家も見つかって鎌倉に引っ越すことになったのだけれど、この家にはそれからも休みのたびに遊びに来て、夏休みなんかは二週間くらい泊まっていた。 そういう子ども時代を過ごしたせいか、私は人の家で何日も泊まっているのが平気だし、誰かが自分のところに泊まっているのもあたり前という感覚があって、伯母が死んでしばらくしたときに、広島に出向していてまだまだ当分戻ってこられそうもない長男の英樹兄から「おまえ住んでくれないか」と言われたときに、「いいよ」と簡単に返事をした。 それを聞いて妻の理恵は少しあきれてためらってもいたけれど、「いいよ」は「ダメだ」とか「ちょっと待って」よりずっと言いやすい。人によっては「いいよ」より「ダメだ」の方が言いやすいのかもしれないが、私は間違いなく「いいよ」の方で、これは考え方や感じ方というより口腔の構造と運動の違いによるのかもしれない。それはともかく、妻の勤め先が横浜から新宿に替わったこともあって、私たちはそろそろ横浜の根岸からもっと新宿に近いところに移ろうかと考えていたところだった。 しかし猫三匹を気兼ねなく飼える貸家となると、全然物件が見つけられなくて、築三十年くらいたっていて当然もっとずっと狭くて使いにくそうで駅からも遠い家が二十万から二十五万にもなるので、何日か考えてから、「考えるようなことじゃなかったね」と言って、妻もここに住むことを了承した。 それで猫三匹を連れて引っ越しをしたという話をすると、「猫は家につくと言うけど大丈夫だった?」というようなことを言う人が何人かいたけれど、それはまったく問題にならなかった。 こと猫となると、実際に飼っている人までが、「渡る世間に鬼はなし」と同じくらいに意味がない「猫は家につく」という諺か慣用句で猫のことを考えてしまうのはおかしなものだが、それはともかく、私と妻と猫たちだけが引っ越したわけではなくて、家具や布団も一緒に引っ越しをしたのだから、猫たちは最初の晩は馴れた匂いのついているクッションの上と布団を入れた押入れの中にそれぞれ居場所を決めてじっとしていて、翌日の朝になると私たちより早く起き出してそろりそろりと一部屋ずつ匂いを嗅いで回りはじめた。 |