上岡伸雄
一方でマスメディアや大衆文化、一方でテロリズムや核兵器、ケネディ暗殺といった政治的陰謀。ドン・デリーロはこれまで、現代アメリカ社会に強い影響力をもつこのような外界の要素を積極的に作品で扱ってきた。 これらは言うまでもなく、人間の意識を支配するような強力な物語を作り出す。現代アメリカ人の現実認識にメディアや政治的陰謀などの要素がいかに関わっているか――それらがいかにアメリカ人に物語を提供しているか。デリーロは『ホワイト・ノイズ』、『リブラ』、『マオII』などでそれを鋭く暴いてきた。そして『アンダーワールド』は、これらの要素をすべて盛り込み、冷戦期の四十年という長いスパンで捉えた作品と言える。 この壮大な裏の現代史とも言える小説に続いたのが、昨年出版された『ボディ・アーティスト』である。本文百二十四ページという小品、しかも外界の現実がほとんど介入しないとあって、デリーロのものとしては異色の小説という感もある。しかしじっくりと読んでみると、これまで彼が追究してきたことからの自然の発展とも思えてくる。 デリーロの作品すべてに共通するのは言語の力への信頼である。いかに言語の力で支配的な言説に対抗できるか。デリーロは大きな物語に支配された日常を異化し、ユニークな言語選択から敢えて人間の自律性を示そうとしてきた。とすれば、『ボディ・アーティスト』はデリーロが言語だけで純粋に勝負しようとした作品と言える。外界で作り出された物語を極力剥ぎ取って、人間と時間と言語との関係を見つめなおし、言語の力を究極まで突き詰める。ここまで純粋に突き詰められる作者の力量に、驚嘆と敬意を感じずにいられない。 タイトルの「ボディ・アーティスト」とは、この小説の主人公ローレン・ハートケを指す。彼女は自己の身体をさまざまに作り変えて表現するパフォーマンス・アーティストであり、ひとり芝居では年老いた日本人女性から裸の青年にまで変身する。そのひとり芝居のタイトルが『ボディ・タイム』なのだが、そのタイトルが示すように、この小説では身体と時間、そしてそれを媒介する言語とのスリリングな関係が展開される。 小説は、このローレンと夫の映画監督レイ・ローブルスとの朝食の場面から始まる。二人は都会から遠く離れた海岸の別荘に滞在しており、そのテラスでは鳥が餌をついばんでいる。夫婦それぞれが自分の朝食を準備するさまは、なんとなく会話が噛み合わないところはあるものの、ありふれた朝の光景にすぎない。しかし冒頭から、その文章は散文詩と言ってもよい緊張感と美しさを孕んでいる。人間が意識することによって世界は生じ、人間はそれを時間の経過で跡付け、因果関係を(物語を)当てはめていく――その当たり前のことがここでは前景化される。 この朝こそ、ローレンにとって通常の時間の経過が、そして言語とアイデンティティが崩れていくきっかけとなる。この朝、家を出たレイは元の妻のもとに行き、ピストルで自殺する。ローレンは海岸の別荘に残り、周囲にレイの存在を感じているのだが、ふと上階に青年が住み着いているのに気づく。この青年はどうやら時間の経過を認識することができず、したがって因果関係がわからないらしい。しかし、記憶力と物真似の天才で、レイとローレンとの会話を一語一句そのまま再現することができる。彼は何者なのか? レイのことを知っていたのか? それは謎のままに残されるが、この存在によってローレンの日常が破られ、彼の存在と一体化していくように思われる――つまり、彼のように世界を経験するようになっていく。 この小説の醍醐味は、言語の崩れ、時間認識の崩れが、言語によって再現されていることだろう。ローレンは青年から会話を引き出そうとするが、青年はあるときはローレンの声色で彼女の言葉を喋り、あるいはレイの声色で彼の言葉を喋り、はたまた時制も論理もめちゃくちゃな文章を喋ったりする。一方でローレンは彼に事物の名前を教えたり、彼を風呂で洗ってやるなど、肉体の接触も含めた世話をする。こうした会話や接触を通して言語が、そして現実が違った様相を見せてくる。それが独特の緊迫感を生んでいるのである。 当たり前として受け入れられてきた現実が違う様相を見せてくること、それが言語に生じる違和感から表現されるとなれば、当然ながら翻訳にはかなりの困難がつきまとう。特に青年はナンセンスな文を喋るだけに、それをどう訳すかは難しいところだった。しかし、意訳することはかえって言語への違和感を減じてしまうことになると思い、できるだけ直訳でいくことにした。ぎこちない文章もあるだろうが、このぎこちなさこそ青年の存在なのだということで、彼と出会ったローレンの困惑を一緒に経験していただきたい。 |