―─『葬送』の現代性(冒頭部分) 平野啓一郎×菅野昭正
菅野 『葬送』は「超」のつくような大作ですが、読ませて頂いて、当然ながらいろいろなことを考えさせられました。まず、最初に感じたのは、多種多様な含みのある面白い題材を選ばれたということです。時間的な枠組はフランスの七月王政が終わる時代ですね。 平野 第一部と第二部とに分かれてますが、第二部の最初で二月革命が起こる。そこをはさんで、七月王政末期と、革命後の第二共和制初期の雰囲気を対比させたいと考えました。 菅野 具体的に言うと、小説の中の時間は七月王政末期、一八四六年十一月、主人公の一人ショパンと愛人ジョルジュ・サンドの仲が険悪になってきたころから始まる。そして四八年の二月革命を経て、第二共和制の初期で終わる。つまり、文字通り転形期を背景にしていることになりますね。がらがらと社会の様相が変わっていく時代で、ひとつの時代の終わりと、別の時代の始まりが錯綜しているんですね。しかも同時に、もう一人の主人公ドラクロワ自身にとっても、画家としての一つの大きな仕事を終えて、次の仕事へ移っていく時期なんですね。時代の転換とドラクロワにとっての芸術的な転換が重なっている。それはひとつの側面ですが、それだけでも小説的な想像を後押しするエネルギーが、いっぱい詰まっているような気がします。 実際の歴史の話になりますが、七月王政というのは、ブルジョワジー、特にその中でも金融資本家や、織物工業などで大儲けした産業資本家が政治的権力を握った時代ですね。しかし一方で、産業革命の進行につれて貧困層が拡大して、社会階層が分離していく事態もあるし、もう一つ重大なのは、お金がものを言う世の中が到来したということです。『葬送』に描かれたちょうどその時代に、ボードレールが、「人々が金のことばかり話す時代」「みんなが金持になりたがる時代」の不快さという意味のことを言ったりするのが、その変転の局面を端的に表わしていると思いますね。なんとなく現代日本にオーバーラップするところがありますが……。 そしてまた、ブルジョワ社会が強固になり、金権社会化が深刻になる中で、芸術家の生き方、芸術のあり方が変わらざるをえなくなった。七月王政期の代表的な画家であるドラクロワ、音楽家であるショパンの二人を主人公にする小説であるからには、そういうことも視野におさめる必要が当然ある。そのあたりのことは、『葬送』に直接に、明示的に書かれているわけではありませんが、見えない背景になっていると推測できます。 そもそも、この小説を構想された動機はどういうことだったのですか。 平野 もともと、デビュー作の『日蝕』という小説を書く時に、既に僕なりの「ロマンチック三部作」とでもいうべきもののイメージがありまして、漠然とこういう小説は構想してはいたんですけれども、実際に形になってきたのは、二作目の『一月物語』を書き終え、資料を調べはじめた頃でした。 ロマン主義を扱ったのは、僕は常々、ものを書く人間は、色々な問題を扱う前に、先ず自分自身に対する批評を徹底して行うべきだということを考えてまして、その場合、僕にとって自分のロマン主義的気質というのは、克服するにせよ、発展させるにせよ、まさしく批評されるべき根本の問題だと思われていたんです。 冒頭に、「堕落とは何か。 仮にそれが、一元が二元になったことだとするならば、 堕落したのは、神だということになる。 言いかえれば、創造とは神の堕落ではあるまいか。」というボードレールの言葉を引いています。作品の中にはボードレールは少ししか登場しませんが、この小説を書く動機の部分では、ボードレールの存在が大きかったんです。 一つには、ボードレールは一八四六年のサロンの批評の中で、ロマン主義について書いているんですね。実は当時の一般の認識では、ロマン主義という芸術思潮はもう下火だというふうに捉えられていた筈なんです。ロマン主義の活動が一番盛んだったのは、一八三○年前後。一八四三年にポンサールの擬古典主義的な劇『リュクレース』が成功し、一方でユゴーの劇『城主』が大失敗したことで、ロマン主義というのはもう終わったという風潮があったようなんですね。 ところが、そんな時代に、新進気鋭の美術批評家のボードレールは、「私にとって、ロマン主義とは、美の最も新しい、最も現在的な表現である」と書く。そのことが、僕はずっとひっかかっていたんです。 ボードレールは、「ロマン主義とは、ものの感じ方」なんだと言っている。「ものの感じ方」という言葉は、今回の小説のキーワードになりました。つまり、当時の人が何をどう感じていたかというのは、時代を読み解く大きなカギになってくるだろうし、僕が考えていたロマン主義というものの解明に役立つと思ったんです。さらに彼は、嘗てのロマン主義者達は、ロマン主義を外部に探し求めたが、それを見出すことが可能であったのはただ内部においてのみなのだというようなことを書いていて、その段階で、僕の中に小説の中心を心理小説的なものにしたいという考えが生まれました。 二つ目に、ボードレールの『火箭』という遺稿集の中に、「凡作を書くには天才が必要だ。私は凡作をこそ書かなければならない」という言葉があるんです。この凡作というのをどう解釈すべきかは難しいですが、僕はそれを万人にとって最もオーソドクスな表現という風に理解したんです。それは確かに極めて困難な仕事ではないでしょうか。たとえば若者向けに書くとか、幻想文学を好きな人に向けてそうしたスタイルで書くというのは比較的容易かもしれませんが、ある分野におけるもっともオーソドクスなスタイルというのはなかなか得難いものの筈です。僕は、自分の今後の作家としての歩みを考えた場合、一般的にオーソドクシィに対して全力で反発しようとする若さというものの力によって、逆にオーソドクシィの核に接近しようという狙いを持ってました。それによって、何か、恐るべき凡作とでもいうべきものを書きたいと思っていたんです。それではその小説の最もオーソドクスなスタイルとは何か。僕にとってはそれがバルザックでありフロベールでありという、十九世紀のフランスの小説だったんです。勿論、両者は随分と違いますが。 僕は、芸術表現と社会というのは、常に密接に結びついたものだと思っていますので、それを現代を舞台にして扱うことはできないと思ったんですね。 菅野 できないというのは不可能ということですか、それともそうではなく、非常に難しいということ? 平野 はい。現代を扱うには、また現代のスタイルが必要になると思いましたから、そういう問題を扱うなら、舞台そのものを十九世紀にすべきだと考えました。 ただ、そうしたオーソドクスなものを目指すという動機で書き始めた作品が、結果として違ったものとしてでき上がったとしても、それは全面的に肯定しようと思ってました。つまり、その違いにこそ、今後自分が書くものの方向性が見出されるのではないかという考えです。 それから、三つ目が先程の冒頭に掲げたボードレールの言葉に関することなのですが、仮に一元が二元になることが堕落だとするならば、創造こそが堕落ではないのか。『日蝕』で僕が書いたのは、まさしく、まだヨーロッパに神というものがあって、神による一元的な秩序が絶対という観念と結びつき、そこにかろうじて希望を見出し得るような時代です。それが社会の近代化とともに、神の存在が非常に希薄になる。僕は二元というものをそれ自体として完結したものではなく、多元の最小単位としてとらえているのですが、そうした観点からすると、一元が二元になるというのは、一元論から多元論への最初の一歩なわけです。『日蝕』が、主人公を中心として一元論的に世界に接したものであったとするならば、この『葬送』は、もっとポリフォニックに、様々な誤解だとか勘違いとかも交えて書こうと企図していました。 菅野 『葬送』は、人物配置ひとつをみても多元的な小説ですね。そして、その中心には、ショパンとドラクロワが芸術家として対照的に書かれている。 おそらくドラクロワとショパンは、美術と音楽ということはさておいても、芸術家としてずいぶん違うタイプだったでしょう。だからこそ、親密になれたのかもしれない。ショパンは、バルザックが言うように、単純な和音の組合わせで、繊細複雑な感情を豊かに表現する天才ですし、外界でも他の人間でもいいですが、何かによって魂のなかに波動しはじめた、芸術家としての感動をこまやかな位相にしたがって、上手にいろいろな様式で表現している。だけれども、強烈なエネルギーに溢れた芸術家ではないですね。それに対してドラクロワは、歴史や神話の大きな問題を扱い、ある決定的な瞬間、生死を分かつ重大な瞬間に集中的に発現される人間の生の極限的なエネルギーに関心のあった画家です。そんな二人が親密であったというのは不思議なことですが、そのあたりの対比は、二つの異なった芸術的な価値ということになるかもしれないし、それが二元性、ひいては多元性に結びつくんですね。 平野 そうですね。 菅野 それ以外の、人物の配置もコントラストがはっきりしている。ジョルジュ・サンドの娘ソランジュの結婚相手になるクレザンジェという、とんでもない彫刻家がいますが、この小説では、会話もやくざ言葉ふうで「サンドのババアめ」とか言ったりするのが面白い。あの人物が出てくると、一種のファルスのような効果が出てくるんですね。それによって、ショパンのような芸術家の特性が対比的に強化されることがあるし、また一方では、ショパンの友人で真面目なチェリストのフランショームとも対になっている。フランショームはちょっと実直すぎて、小説の人物としては面白みは少ないですが、ともあれこれも明瞭な対比的な存在になっていますね。 それから、女性関係にしても、ショパンの愛人だったジョルジュ・サンドと、晩年に愛人になれそうでなれなかった気の毒なジェイン・スターリングが対比的になっている。こういう人物関係の対位法的な網の目は、どこか音楽的な構成に通じていますが、これは構想の初めから配置を考えていたことですか。 平野 最初に全部資料を読んでしまって、それぞれの登場人物のイメージをつくり、そのコントラストを、作品の筋の運びの中で効果的に使うことによって、長い小説を退屈しないように読んでもらう工夫をしました。 続きは本誌にてお楽しみ下さい。
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