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【冒頭部分掲載】

アミターバ=無量光明=

玄侑宗久

 
 それは五月の半ばに始まった。
 男の人が十人以上並んでいて、みな私に背を向けて立っていた。似たような背広を着ていたと思う。そしてそのうちの一人の右腕の袖を、なぜか私が引っ張っている。誰だったのか、憶いだせなかった。なぜ引っ張っているのかも判らなかった。ただ、気がつくと私はまるで自然に背広の袖を引っ張っており、自分のほうにぐいっと、軽く引いたつもりだったが、その人は何の抵抗もなく、体を伸ばしたまま大きな音をたてて仰向けに床に倒れた。
 私は仰天してその場から逃げだした。そこがどこなのかも判らなかったし、憶いだすと大きな音など聞いていないような気もした。が、とにかく私は走って逃げた。少なくとも私はそう思っていた。そしてようやく逃げおおせたと思い、遠くに見える人影が近づき、まだ誰なのか判らないままに、安心して呟いた。
「やっぱし、救急車呼んであげるべきやったんやろかなあ」
 その時はもう、倒れた人を気遣う余裕が芽生えていた。人影は、急にそんなこと言われても、という顔で戸惑うようだったが、すぐに「母さん大丈夫よ」「母さん安心して、ここは病院なんだから」と言って私の額に手を当てた。
 鼻に緑色の酸素吸入ノズルが差し込まれているのが見えた。
 しばらくすると「今日は、いかがですか?」と、婿殿が陽気な声で訊いた。私は、ああ夢かと思い、ようやく完全に自分に戻って言った。
「はあ、青ひげになってもうて、だんだんエラなりますわ」
 婿殿は立ったまま、丸剃りの頭と額に窓からの光を受けて笑った。しかし娘の小夜子は一瞬笑いはしたもののすぐに近づけた顔の眉根を寄せて訊いた。
「だんだんエラなんの?」
 小夜子は大阪弁の「エラなる」と受けとめたらしかった。私は可笑しくてちょっと頬笑んだ。しかしすぐに、その意味でもだんだんエラくなるのか、と思い直し、憂鬱になった。
「意識はしっかりしている」
 微熱は続いていたけれど、その思いが救いのように降りてきた。たった今見た不思議な光景も、さしたる意味のない夢なのだと思った。


続きは本誌にてお楽しみ下さい。