エトロフの恋
島田雅彦
ヘクトールが黙って子どもに見入り、微笑みかけると、アンドロマケーはその傍らに寄り添い、涙を流しつつ、夫の手に縋りつき、夫の名を呼んでいう。 ――愛しい人、あなたのその勇敢さが破滅を招いてしまうのです。もうすぐあなたを奪われて、私は寡婦になってしまう。この子はみなしごになってしまう。それなのにあなたは、まだ聞き分けのないこの子や不幸な私を憐れんではくれないのですか? ほどなくアカイア軍が攻めてくれば、あなたの命を真っ先にその手にかけるでしょう。あなたとお別れしたら、私は土の下に埋もれた方がましです。あなたが最期を遂げられたら、悲しみが残るばかりで、この先どんな慰めもないのですから。 誉れ輝くヘクトールは我が子に手を差し延べたが、青銅の剣や兜の前立てに馬のたてがみがなびくのを見て怯えた幼子は、乳母の懐にもぐろうとする。父親も母なる妻も声をあげて笑い、すぐさま兜を脱いで、地面に置くと、目映くきらめく我が子を腕に抱き上げ、頬擦りをし、ゼウスほかの神々に祈りを捧げ、こういった。 ――この子もまた、私と同様にトロイア人のあいだでその名を知られ、力にも優れて、イーリオスを治める君主となることを願っている。戦で武勲を上げ、『この男は父を凌ぐ』と誰もがいうような男になり、母を喜ばせるだろう。 ヘクトールは愛しい妻に我が子を差し出すと、妻は涙目で微笑みながら、香しい懐にその子を受取る。夫はそれを見て哀れに思い、妻の手をさすると、妻の名を呼び、こう告げた。 ――しょうがない奴だ。そんなに嘆き悲しんでくれるな。誰であろうと、運命に逆らって私を黄泉の国に送る者などいない。臆病者であろうと、勇士であろうと、人の世に生まれた者は全て、黄泉の国に招かれることになっているのだ。さあ、家に帰って、おまえの仕事をするがよい。機を織るなり、糸巻き車を回すなり。戦は男連中に任せて。 『イーリアス』 第六書 0 アラスカよりもさらに西、日本よりもさらに東のはずれにゆく。君たちと離れて暮らしているあいだに予期せぬ災難が我が身に降りかかってきて、優雅とは程遠い暮らしを強いられている。君たちから見れば、行方を眩ませているも同然だが、君や文緒に不幸のとばっちりが及ぶようなことがあってはならないので、帰るに帰れなかった。これだけは信じてくれ。私は君たちを捨てたのではない。君たちから不幸を遠ざけようとしていたのだ。 もう歌手としてステージに立つこともないだろう。声は枯れ、男としても枯れてしまった。かつて君が愛してくれた私はもういない。いわば、私は用済みの男だ。用済みの男にもプライドは残っている。私はこの国の未来に多少なりとも関わりのある使命を果たすつもりでいる。この仕事に私は自分の復活を賭けている。ここで、全ての厄を落としてからでないと、君たちのもとには帰れないと思っている。 夫として、父親として、君たちに当然してやるべきことをしてやれないのが、何よりも心苦しい。だが、君が変わらぬ美しさを保っていること、文緒がすくすく成長していることを願ってやまない。今すぐにでも君たちのいる赤い屋根の家に戻り、君の手を握り、その髪を撫でてやりたい。文緒を抱き上げ、頬擦りをしたい。鏡の前に立ち尽くし、私は自分の記憶に住まわせている君に話しかけている。もし、心動かされるような男がいたら、自分の本能に従ってくれ。本当の愛は結婚によって証明されるのではなく、君の本能が見つけるものだから。そして、私はいくつもの後悔を重ねる。君が私のそばにいた頃、なぜもっと君の新しい髪型を誉めてやらなかったのか、どうして君が作ったスープのお替わりをしなかったのか、別れ際にもう一度キスをしなかったのか、君の悲しみを理解しようとしなかったのか。その後悔ゆえ、私はますます君がいとおしくなる。 続きは本誌にてお楽しみ下さい。
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