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【冒頭部分掲載】

戦争、時代、そして人間──言論という砦をめぐって

城山三郎×澤地久枝

 
プロローグ

澤地 はじめてお目にかかったのは一九五九年四月です。つぎの長篇の準備に伊豆へこもられる城山さんに、無理なお願いをし、当時つとめていた『婦人公論』の六月号(五月六日発売)にエッセイを書いていただきました。いまの天皇・皇后両陛下の御成婚(四月十日)をはさむ時期です。婚約発表以来、たいへんなブームが起きていることと、お作の『大義の末』(この年一月に刊行)のテーマとの結びつきを考えてのプランでした。「小説は一枚も書けなかった」と言いながら渡してくださったのが「天皇制への対決」です。この四十年あまり、ずっと借りがあると思いつづけてきました。
城山 何か難しいテーマだなぁと思ったけど、凜として言い張るから困っちゃって。でも、そこに負けて書かされた。なるほど女性編集者は、こう凜々しくなくてはいけないのか、その生きた実例を目の当たりにした気がしました。それから後は女性編集者というと震えちゃって、なるべく受けないようにしようと(笑)。今は、多少は怖くなくなりましたけど。
澤地 すみません(笑)。負い目を感じたのは、タイトルが内容に即せず、無理があり、御迷惑をおかけするのではないかというためらいがあったためでもあると、いま思い出しています。『大義の末』は戦争中のベストセラー、杉本五郎陸軍中佐の書いた『大義』によって人生の方向を決め、敗戦で挫折する青春がテーマでした。しかしあの頃でも、「大義」は通じにくくなっていて、タイトルは難航しました。私は城山さんより三歳だけ妹ですが、自分の体験とかさねあわせてじつによくわかり、感銘を受けてのことでした。
城山 年配の方は皆そうですが、日本人は忠君愛国、天皇のため、国のため全てを捧げるべきだという、全体主義のもとでずうっと育った。私もそう信じて十七歳で海軍を志願した。だけど戦争が終わったら、イヤそうではない、人間にとって一番大事なのは個人の自由なのだという。今までと百八十度逆、それが人間本来の生き方であり民主主義だという時代に変わった。
澤地 悠久の大義に生きるとか、忠君愛国、滅私奉公、殉国の思想を素直に受け入れ、熱中していった十代のあと、器用に変身できない人間にとって、戦後の何年間かは暗かったですね。私は予科練(海軍飛行予科練習生)に女が志願できないのは口惜しいと思った日々をごまかせず、一年間の難民生活のあとで引揚げてきたこともあり、茫然としていました。焦点を失い、さらにはいかに愚かであり無知であったかを思って、屈辱感のなかにいました。振りかえりたくない恥の感覚から戦後を歩き出した感じです。
城山 私は、戦争が終わって学校に戻ると、先輩たちにひどく馬鹿にされましてね、ドイツ語で兵隊をゾルダーテンといいますが、略して「ゾル」。何か馬鹿にしてるようで、語感がよくない。「お前、ゾルだったのか」「まだゾルから抜けない」、何かにつけゾルゾル言われて、すっかり嫌になった。彼らは、お前は世の中を全然分かってない、というが、お前らこそ戦争に行かずに何言うか、と反発もあった。しかし、それに対抗するためには、理屈も必要でした。人生とは、人間の生きがいとは何か、そうした議論をするなら、学校の授業では足りない。ですから学校は休んで、朝から晩まで、時には寝ずに済む薬を飲んで、一日二~三時間の睡眠で本を読み続けました。そのうち本業がおかしくなって、一度は経済学の教師になったけども、結局、落伍して作家になった。紆余曲折はありますが、いまだに『大義』はいろんな形で私の中に残っているんです。
澤地 城山さんのお父様は時勢をしっかり見ておられて、息子を戦争に奪われない方途として、理科系の学校へ進ませる。御自身は四十二歳で軍隊に召集された。城山さんはお母様の反対を押しきって海軍特別幹部練習生に志願して入隊する。その夜、お母様は泣いて一睡もされなかったことなど知らない海軍生活は、敗戦までの三カ月間。戦争が終わって、東京商科大学(現一橋大学)へ進学しようとしても、すぐには入学を許されない。わずか十七歳、三カ月の海軍生活ですのに、「軍学徒進学制限」にひっかかったという。不条理という言葉は戦後の一時期、流行語になりましたが、言うに言われぬものが心に巣喰っていた世代が私たちだったと思います。
 さきほどのエッセイに戻りますと、『大義の末』の読者から、それぞれの人たちが経てきた天皇制との対決を告白する手紙が届いたと書かれています。「無数の針をのみこんだように、あの戦争の日の記憶は心の中に残っている。……戦死者たちの屍の山、それにつづいて、私たち世代のぬけがらの山が累々と連なって見えてくる」と城山さんは書かれた。結婚を祝うとは、「結婚当事者の幸福を祈るということを措いては考えられない。『皇太子夫妻の末長い幸福を祈る』――それのみが、本当の祝い方だと思う」とあって、「天皇のためなら」「皇太子のためなら」と別格扱いをしつつ、皇室の人気に便乗し、すりかえをする人々の無責任さ、危険性を批判されています。
 政治の悪をかばう形でかつぎ出される天皇家の前途への危惧につづけて、『大義』についての言及がある。その内容を私は忘れていました。
「この本は、忠君愛国の書でありながら、ところどころに伏字がある。奇妙なことだと思っていたが、最近になってその伏字の箇所には、『現在大陸に出ている軍隊は皇軍ではない。奪略・暴行・侵略をほしいままにする軍隊は、皇軍でなく侵略軍である』という意味の文句などが書かれていたことを知り、驚くと同時に思い当るところがあった。あれほど私たちの心をつかんだのは、ただ激越な大義の鼓吹だけでなく、その底に、中佐特有の生一本な正義があり、それが文面ににじみ出ていたからであろう」
 さらに、
「だが中佐は、この本のおかげで、中国の最前線の激戦地に飛ばされ、戦死させられた(注・昭和十二年九月、山西省で戦死、中佐に進級。『大義』は遺稿として十三年に出版された)。そして最近になって、一人の読者から、この中佐の遺児を、広島の原爆孤児収容所で見かけたことがあるという手紙をいただいた。私は何か他人事とは思えなかった。自分の肉身の一人が、不当に辛い目に会わされているような気がしてならなかった。……純粋に尊皇一義に生きた中佐。それを葬り去るような軍隊の機構。尊皇精神鼓吹には利用できる限り利用しておいた末に。/御成婚を無邪気に祝っている人たちに、私はこの杉本中佐を見舞った悲運を告げずにはいられない。中佐と同じ悲しみを、いつかわが身に、また、わが子の上にもたらすことのないように」
 ともあります。沸き立つブームの中でのこのエッセイは、痛切で、勇気を感じさせます。月刊誌の寿命は一カ月限りでも、図書館などに合本で残って、知ろうとする人にはいつでも読む機会があります。私が二十八歳と若くて図々しかったにしても(笑)書いていただいてよかった。強引で御迷惑をかけたと反省はしますが(笑)。
城山 日本という国はもともとはっきりものを言いませんけど、本来の自由主義は、他の大義を認めるものです。だけど普通の大義は、他の自由を認めない。今、いろいろ問題を起こしている国は、他の信仰の自由、他の生き方の自由を認めない。そういう大義なんですね。大義という言葉には矛盾しますけど、やっぱり他人の自由も認める大義のほうが、人間らしいのではないかと思いますね。それなら、独裁的でおかしな政権ができても、ジャーナリズム、言論が自由であれば、権力主義的な暴走を抑えられる。そういう自由があるからこそ自由主義はいいのであって、他の意見を一切許さない姿勢は、不自由な社会へ向かう大義になっていく。このところ、何としてもその自由を守りたい気持ちが強いのです。


続きは本誌にてお楽しみ下さい。