─対談─文学の成熟曲線
古井由吉×高橋源一郎
「まっすぐな心」から ――去年の末、古井さんと高橋さんのお二人が出演する朗読会が開かれました。ところが、高橋さんはお母様を亡くされた直後という状況でした。そこで、近作『日本文学盛衰史』から、短歌を作っておられたというお母様が登場する章「ラップで暮らした我らが先祖」を朗読したのです。この小説では、明治中期最大のベストセラーである小杉天外の『魔風恋風』が引用され、その言語感覚が「この言葉遣い、この感覚、一週間に一度手紙を送ってくる、今年七十五になるぼくの母親のそれとまったく同じだったのだ!」という驚きと、その二者に共通する「まっすぐな心」がモチーフになっています。その問題に関心を持たれた古井さんから、「二人で『虞美人草』を読みましょう」という提案があり、今日の対談となりました。 たまたま、ここに昭和十六年に中川信夫監督が撮った『虞美人草』のビデオがあります。少しそれを観ることから、対談を始めようと思います。 古井 一九四一年? 戦争中ですね。 高橋 国策映画ですか。中川信夫って、『東海道四谷怪談』の監督ですね。 古井 冒頭はだいぶ省略してあるね。 高橋 でも、セリフは漱石の原作そのままですね。 古井 家の構えが参考になる。 高橋 こういう書斎が欲しかった(笑)。配役、いいですよね。いかにもっていう俳優ばかりが出てくる感じ。 古井 いかにもっていうふうにやらなきゃいけなかったんでしょうね。 高橋 わかりやすい。ストーリーのことだけ言えば、『虞美人草』はそのまま映画化できるわけですよね。キャラクター小説だから。ほかの作品だと、いろいろ変えなくてはいけないけど。 古井 また、一種の勧善懲悪だから、構造としてはわかりやすいよね。 高橋 要するに素直に映画化してるってことですね。演出は、ほとんど何もしてない(笑)。 古井 日本の芝居は本来演出がないんですね。役者と役者が張り合ってアンサンブルが出来る。それにしても、飽きるって言えば飽きる、飽きないって言えば飽きない映画だね。 高橋 見やすいですよね、すごく。戦時中に撮ったということでいうと、題材としてどこからも文句来ないですしね。戦争が出てくる映画だと、反戦を匂わせてもまずいとかいろいろあるわけだし。すでに溝口健二が撮っていて、作りやすかったのかな。 古井 戦争が起こると、すぐ悲惨を連想するけれども、人は色っぽくなるんだね。風紀紊乱が結構多くなるらしいし。 高橋 女優がかわいいですね、みんな(笑)。これは驚いた。 古井 映画の世界は別世界だったのでしょうね。 高橋 こんな美人いたんですね。 古井 当時はだんご鼻が多かったのに。この映画は、人形ぞろえみたいなもんだよね。 高橋 漱石の原作だと、藤尾だけが魅力的に書いてあるけども、小夜子も糸子もすごくかわいいじゃないですか。 古井 映画となると、美人そろえちゃうから。 それにしても、四一年ですか。もう一年下がったら撮れなかっただろうね。 高橋 ぎりぎりですね。 古井 余り長く上映できなかったんじゃないかしら。 高橋 こうしてみると、『虞美人草』って映画のシナリオみたいな小説ですね。 古井 土台にして映画にしやすい。一種の箱書きだからね。 高橋 いや、なかなか面白かったです。 高橋 朗読会のときに古井さんとお話しして、そのときの続きを古井さんとお話をしたいなと思ってたんですね。 『日本文学盛衰史』という小説では明治文学についてずっと書いてきたんですが、書き終わってしばらくたつと積み残したことが幾つもあるな、という気がしてきました。一つは、先ほども話に出た「たくさんのまっすぐな心」に象徴されるような、評論にもなりにくいし、誰も取り上げてくれないことを、もっときちんと取り扱えたのではないかという問題です。 それからもう一つ、「文学盛衰史」ということで自分で一つの歴史を書いてみたわけなんですが、二葉亭四迷や石川啄木については、ある程度自分でも納得がいく書き方をしたつもりです。けれど、漱石に関してはあまりうまくいかなかったなという気持ちが残りました。どうも、そこまで正直言ってカバーし切れなかったというところがいくつもあって、例えば『虞美人草』のことをどうしても書けなかったなと思ったんです。「原宿の大患」の章で少し触れてはいるんですが、ああいう扱い方で果たして良かったのか。で、ちょうど『虞美人草』を読み返していたときに、古井さんが『虞美人草』について話したいとおっしゃっていると聞いてビックリしたんです(笑)。何か後ろから覗かれたようで、一体どういう角度で古井さんが『虞美人草』というボールを投げ込んできたのかと、実は戦々恐々としてここに来ました。 古井 僕の方の事情を申しますと、この前、高橋さんが母上が亡くなった直後に朗読会に臨んで、母上のことをおもしろかなしく話してから小説を朗読し始めて、その中に引用された小杉天外の『魔風恋風』を読まれた。 「鈴(ベル)の音高く、現れたのはすらりとした肩の滑り、デートン色の自転車に海老茶の袴、髪は結流しにして、白リボン清く、着物は矢絣の風通、袖長けれど風に靡いて、色美しく品高き十八九の令嬢である……」。 諧謔をもちながらある共感を込めて、なかなか気持ちよくお読みになっているのを聞いて、ああ、いいなって聞いていました。それが耳に残ってるんですね。小説って、読む時と、聞く時があると思うのですが、自分が聞くという領域に踏み込んでいた時だったので、余計、高橋さんが言った「たくさんのまっすぐな心」という言葉が僕に響いてきました。 そんな折、たまたま人に尋ねられたんですよ。「『虞美人草』なんか好きですか」って。実は久しく読んでなかったし、全然そう思ってなかったのに、とっさに、「あれはいいです」と言っちまった。言っちまうと、また気持ちが走るでしょう。一言また余計なこと口走った。「ひょっとすると、漱石の中で一番いい作品じゃないか」って。 なぜ、そう口を滑らせたのかが、気になりましてね。多分高橋さんの朗読の名残があったんでしょう。昔の人は小説を、読もうとしたんじゃなくて、聞こうとしたんじゃないかと思ったしね。聞くと、いろいろな形容が文章に乗る。それと自分たちの小説を引き比べていましたね。これは大分違うものです。 高橋 それでは、古井さんにとっては『虞美人草』は目の前に突然あらわれたものなんですね。 古井 ちょっと伏線があったようですよ(笑)、あなたの伏線が。 続きは本誌にてお楽しみ下さい。
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