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【冒頭部分掲載】

浅間

立松和平

 その昔、天竺国に霖異(りんい)大王という人があった。后を光契(こうけい)夫人といった。二人の間に姫が一人あり、金色姫といった。光契夫人が早く亡くなられ、霖異大王は若い夫人を新しく迎えた。この后は妬み深く、大王に愛されている姫を憎み、父王にあらぬことを告げた。姫を獅子吼山(ししくざん)というところに捨てさせた。しかるに天の加護があったのか、姫は無事で、獅子に乗って国に帰ってきた。そこで后は鷹群山(ようぐんざん)というところに捨てさせた。この時は鷹が多く集まり、肉を運んで姫を育てた。大王の臣下はこれを遥かに伝え聞き、ひそかに姫の供をして都に帰った。后はまた姫が帰ってきたことを憎み、海眼山(かいがんざん)という島に流した。この時は漁夫が助けて都に送り届けた。后は大いに怒り、臣下に命じ、御殿の庭を深く掘り、姫を埋めて殺した。その後土の中から光明が輝き、これをあやしんだ大王が掘らせると、姫は生き返ってなんの害もなかった。大王は姫の行く末を案じ、桑の木のくり舟に乗せて滄海(そうかい)へ流した。この舟は日本の常陸国豊良の湊へ流れ寄った。その浦人が助けて介抱したが、いくほどもなく姫は亡くなられ、その霊魂がお蚕(こ)さまとなったということである。
 そのためにお蚕さまが最初に眠りから覚めるのを獅子の居起きといい、二度目を鷹の居起きといい、三度目を舟の居起きといい、四度目を庭の居起きという。これは金色姫が天竺で四度の災難に遭ったことにちなんで名づけられたということだ。
 ゆいが母のとよから聞いた話である。ゆいの村では養蚕というものはしていなかった。夜、囲炉裏端で繕いものをしながらなので、母は疲れると話を早く切り上げ、余裕があると内容は詳しくなった。
 桑のくり舟に姫を乗せて海に送り出しながら、お前は神仏の化身なのだから仏法流布の国に流れ寄せて人人を救うべしと、大王は涙ながらにさとした。その舟は万里の波濤をしのぎ、八重の潮路に漂い、揺られ揺られて幾星霜を送り、秋津洲の東の果ての常陸国筑波郡豊良の湊に着いた。そこに権ノ太夫という浦人がいて、そのくり舟を見て薪にしようと引き上げ、斧で打ち破ろうとすれば、なんともやさしそうな姫が一人坐っていた。太夫は我が家に連れて帰り、掌中の玉としてはぐくんだが、ついに姫は露と消えてしまった。太夫夫婦は嘆きのあまり、唐櫃(からびつ)をあつらえて渇仰した。するとその夜の太夫の夢の中に姫が現われ、我に食を与えなば、必ずあなたの恩に報いようといった。夜が明けて唐櫃を開けると、姫は小虫となっていた。太夫は何か食を与えようと考え、姫は桑のくり舟に乗ってきたのだからと桑の葉を与えると、小虫は喜んでこれを食べ成長していった。ある時虫は桑を食べないで頭を持ち上げわなわなと震えている。夫婦は驚きどうしたらよいかわからなかったが、その夜姫が夢にでてこういった。騒ぐことはない。我天竺にある時、獅子吼山に流され堪えがたき苦しみを得たために、今休眠をしているのである。このようなことは四度あるであろう。姫がこういったところで太夫は目覚めた。こうして太夫はこの虫の四つの苦しみの後に、舟に乗ること、すなわち繭をつくることを学んだということだ。
 母はその母に聞いた話なのである。常陸国豊良湊には蚕影神社があって、そこに伝わった話だということだ。ゆいは母から何度もこの話を聞き、聞くたび話の運びは微妙に違ったのだが、お蚕さまは海から伝わってきたのだと知った。だがゆいは海というものをいまだに見たことがなかった。それまでお蚕さまについても、よく知らなかった。
 養蚕の季節が迫っていた。

続きは本誌にてお楽しみ下さい。