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【冒頭部分掲載】

第二十九回川端康成文学賞受賞作
吾妹子哀(わぎもこかな)し

青山光二


 応接間の扉が、音もなく、ゆっくりと開いた。扉を背に、客と向かいあって椅子に坐っていた杉圭介は、気配で、どきっとして振向いた。妻の杏子が、小型の盆を片手に捧げて立っている。
(どうしたんだ)
 という声を呑みこんで杉が椅子から腰をあげるより早く、杏子はテーブルの傍まで 来て、
「つまらない物ですけど」
 低声で云って頭をさげた。
「いいから、階下(した)へ行ってなさい」
 杉は、急いでテーブルから拾いあげた黒い漆器の盆を片手に、もう一方の手で妻の背を抱えるようにして扉の方へ連れていった。
「何も心配しないでいいから」
「でも、お客さま……」
「お茶の支度は、おれがちゃんとしてるじゃないか」
 魔法壜の湯で紅茶を淹れ、洋菓子などの用意も杉が自分でするのが、だいぶ前からの習慣だった。
「わかった?」
「はい」
 扉の外の整理箪笥の上に盆を置いて、階下の奥の食堂に当る部屋まで妻を送って行った。お茶を出すつもりだったのか、湯呑や茶托、急須など、それぞれ造りの違うのが、いくつもテーブルの上に並べてあるのを、しばし茫然と眺めていてから、杉は妻を長椅子に掛けさせて、「少し休みなさい」と声をかけた。そして、廊下へ引返した。応接間へ戻って、
「ぎょっとするよね」
「奥さま、お気を使ってくださってるんですよ」
 と、女編集者。
「それはそうだろうけれど」
 扉の外の整理箪笥の上に置いた黒い漆器の盆には、橙色と白の半々に彩られたカプセル剤が二、三十錠ばかり、きちっと並べて載せてあった。ビタミンEの補給剤としてKC病院・神経内科の患者である妻に処方されているユベラという薬だったが、ほとんど呑まないので、いくらでもあるのだ。しかし、カプセル剤が客をもてなす菓子に化ける、妻の頭のなかの構造はいったいどうなっているのだろう。
 菓子のつもりのカプセル剤くらいで驚いてはいられない。玄関の下駄箱の棚に化粧品が並んでいるかと思うと、食堂の食器棚に靴やスリッパが詰めこんであったり、浴室の脱衣場の棚には鍋や皿や大小の食器類が積みあげてあったりする。いちいち元の正当な置き場所へ戻そうとしても、戻したはたからまた別の突拍子もない場所へ移動するのだから、手の付けようがない。玄関の上り端(はな)にスリッパといっしょに履きふるした靴が並んでいたり、脱いだ靴が並んでいるべきタイルの床に植木鉢が並んでいたりする始末。
 アルツハイマー型痴呆症の頭脳の混乱は、先ず記憶をつかさどる機能の崩壊から始まるようだったが、日を逐って崩壊の度合いは進行していくかのようである。
 杉圭介がエッセイを連載している料理雑誌の担当編集者である阪中礼子が原稿を受取りに来だしたのは一年ほど前からだが、その頃はまだ玄関で靴をぬいで廊下へ上ろうとすると、スリッパが全部ちぐはぐで、それも念入りにちぐはぐなので、そろったのを見つけて履くのに手間がかかるといった程度だったが、季刊の雑誌の連載四回目に当る今は、主人公の杉が家のなかの整理整頓などあきらめて投げてしまっているので、どうかすると、スリッパなしの靴下裸足(はだし)で廊下へあがった方がてっとり早いといった具合だ。
続きは本誌にてお楽しみ下さい。