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【冒頭部分掲載】

わがとうそう

青山真治

 レンズのような大粒の驟雨がアスファルトに弾けてみるみる黒く塗りたてるのに、反射的に察した身の危険に逆毛立つ猫を模倣して最寄りの、自分一人立てるかどうかという手狭な軒下に飛びこんだが、途端に軒で弾けた冷たい飛沫が空を見上げた顔面めがけて降りかかる。その間にも、雨はさらに勢いづいて路面を叩き、湿った風を巻き上げるのだが、滝の裏側に隠れた洞窟から見るように視界を遮断して、露地の斜向かいに聳える高層ビルさえ霞ませた。またしても世界から切り離された、と額や頬を流れ落ちつつ沁みこんでいく水滴を拭いもせず、秋彦は濁った空を睨み上げた。
 その冬は激しい雨にしつこく降られた。つくづくツイていない、とここに通い始めてからの三週間を振り返り、溜息が洩れかけるのをつんのめった咳払いでごまかした。なけなしの運が溜息一つでゼロになる。そんな年寄りじみた験担ぎを自分に課さねばならないほどツキは底を打っているが、それを取り繕う弱々しい咳払いも、これでもかと軒先を叩く雨音に掻き消された。乾ききっていたアスファルトから立ち昇る風の埃臭さが、吸い込んだ外気に混じってつんと鼻を突くのに思わず顔を背けると、その隙間から数日前の出来事の残り香が肩口に湧き出る気がした。上着まで替えたのだからあるはずがないにもかかわらず、じっとりと汗のように躰から離れない残り香は、その出来事もまた自分を世界から遮断する不幸の延長に他ならない、と忠告を促すサインなのか。雨にも残り香にもうんざりして、再び後悔の溜息が洩れかけるのを慌てて噛み殺す。
 そこでポケットの携帯電話が鳴った。表示は会社の番号だったが、それが誰だかはわかっている。 「遅かったですね」
 そこにいるはずのない残り香の主と、電話の相手の傍にいるだろう似ても似つかぬ女の面影が、一瞬ダブった。
「ああ、ゴムつけないとやばかったんでよぉ」
 訊いてもいないことを云う、と声の主である滝口にうっすら鼻白みながら、空を見上げた。一粒々々、雨が輝いている。
「すごい雨なんですよ、聞こえるでしょ?」
「またかよ、……でも早くしてくれよ」
 自分が遅れておいて、と怒りがこみ上げるが、「もう角ですから、すぐ」
 携帯電話を切り、とうとう溜息が洩れた。しかたがない、と見切りをつけ、弛みそうもない雨足の下に駆け出した。間もなく昼休みが終わり、ランチに出た社員らが一斉に帰ってくる。入れ換わりにこれから雨の中を出かける者も混ざって、社屋の入口はいつも以上にごった返すだろう。それより前に地下室の鍵を開けて滝口を外へ出さねばならない。角を曲がると、ずっと奥まで出版社と印刷屋の並ぶ細い露地が真っ直ぐに伸び、そこに充満する濡れた紙の匂いを吸い込まないよう呼吸を止めてビル二軒分駆け抜け、三軒目の陰気なそのビルに飛び込んだ。
 幸い入口にはまだ誰もいなかった。ぴょんぴょん跳ねて濃紺のハーフコートに張り付いた雨滴を払いながら、地下へ繋がる昏い下り階段に立ち、ポケットから鍵を取り出すと、軽薄な金属音が階段を囲むモルタル壁に響く。雨の降るどんより曇った時では昼といえども普段より一層光は届かず、奥には闇が謂れのない悪意を孕んだ固形物のように淀んで、怖がりはしないもののやはりいつ見てもいい気はしない。階段を下りきって奥の扉まで約六歩、その闇の廊下を手探りで進んで、そこで右側の壁に幽かにそれとわかるスイッチを上向きに弾くと、蚯蚓の鳴き声を思い出させる雑音を立てて蛍光灯が点く。その下に青ペンキで雑に塗られた地下室の鉄扉があった。
 合図に三度、その鉄扉をノックして鍵穴に鍵を差した。回りが悪くて、ノブを掴んでぐっと持ち上げるようにしないと開かない。ようやく扉が開くと、秋彦のその努力の寸暇さえ惜しむように、滝口が唇を合わせた女から躰を離すところだった。
「お待たせしました」
 秋彦は、謂れのないばつの悪さに顔を伏せた。
「いつも悪いな、じゃあ」
 滝口が微笑を浮べてそう云い、ブレザーの袖に腕を通しながら足早に地下室を出て行った。女が残った。秋彦が愛想笑いを浮べると、経理部の藤沢淳子という、秋彦より二つ年下のその女は、立ったままの姿勢でちょいと足を開くと、光沢のあるダークグリーンのタイトスカートの上から太腿の辺りを指で抓むようにまさぐってベージュのタイツを直しながら、
「柴田君、煙草、ある?」
 秋彦は黙って淳子にセヴンスターを差し出し、ついでにライターで火を点けてやった。首を捻って咥えた煙草を突き出した淳子の、ブラウンのストライプがプリントされた白いブラウスは、これ見よがしに襟元がはだけて、そこからゴールドの下着が覗いている。

続きは本誌にてお楽しみ下さい。