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【冒頭部分掲載】

博士の愛した数式

小川洋子


 彼のことを、私と息子は博士と呼んだ。そして博士は息子を、ルートと呼んだ。息子の頭のてっぺんが、ルート記号のように平らだったからだ。
「おお、なかなかこれは、賢い心が詰まっていそうだ」
 髪がくしゃくしゃになるのも構わず頭を撫で回しながら、博士は言った。友だちにからかわれるのを嫌がり、いつも帽子を被っていた息子は、警戒して首をすくめた。
「これを使えば、無限の数字にも、目に見えない数字にも、ちゃんとした身分を与えることができる」
 彼は埃の積もった仕事机の隅に、人差し指でその形を書いた。
          √
 私と息子が博士から教わった数えきれない事柄の中で、ルートの意味は、重要な地位を占める。世界の成り立ちは数の言葉によって表現できると信じていた博士には、数えきれない、などという言い方は不快かもしれない。しかし他にどう言えばいいのだろう。私たちは十万桁もある巨大素数や、ギネスブックに載っている、数学の証明に使われた最も大きな数や、無限を越える数学的観念についても教わったが、そうしたものをいくら動員しても、博士と一緒に過ごした時間の密度には釣り合わない。
 ルート記号の中に数字をはめ込むとどんな魔法が掛かるか、三人で試した日のことはよく覚えている。四月に入って間もない頃、雨の降る夕方だった。薄暗い書斎には白熱球が灯り、息子が放り出したランドセルが絨毯の上に転がり、窓の向こうには雨に濡れる杏の花が見えた。
 いつどんな場合でも、博士が私たちに求めるのは正解だけではなかった。何も答えられずに黙りこくってしまうより、苦し紛れに突拍子もない間違いを犯した時の方が、むしろ喜んだ。そこから元々の問題をしのぐ新たな問題が発生すると、尚一層喜んだ。彼には正しい間違いというものについての独自なセンスがあり、いくら考えても正解を出せないでいる時こそ、私たちに自信を与えることができた。
「では今度は、マイナス1をはめ込んでみるとしようじゃないか」
博士は言った。
「同じ数を二回掛算して、マイナス1になればいいんだね」
 学校でようやく分数を習ったばかりの息子は、博士の三十分足らずの説明でもう、ゼロより小さい数の存在を受け入れていた。私たちは頭に‐1を思い浮かべた。ルート100は10、ルート16は4、ルート1は1、だから、ルートマイナス1は……。
 博士は決して急かさなかった。じっと考え続ける私と息子の顔を見つめるのを、何よりも愛した。
「そんな数は、ないんじゃないでしょうか」
 慎重に私は口を開いた。
「いいや、ここにあるよ」
彼は自分の胸を指差した。
「とても遠慮深い数字だからね、目につく所には姿を現わさないけれど、ちゃんと
我々の心の中にあって、その小さな両手で世界を支えているのだ」

続きは本誌にてお楽しみ下さい。