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【冒頭部分掲載】


─座談会─
「顕示と隠蔽──折口信夫の表現」

丸谷才一 富岡多惠子 岡野弘彦


岡野 今年は、折口信夫が昭和二十八年九月三日に亡くなってから満五十年になります。神道では、満で記念の祭りを営むことになっていまして、折口信夫五十年祭を営む年にあたります。それを機会に、「まれびと」論を始め、民俗学や国文学、宗教学、芸能史などの各分野に独自の学風をひらき、さらには歌や小説、詩といった創作まできわめて多方面にわたって大きな足跡をのこした折口信夫について三人でお話ししたいと思います。
 折口は、一九四五年八月十五日、敗戦の日から一月余り、箱根の仙石原の山荘にこもります。そこで、つれづれに戦中の思い、戦後の思いを託して詠んだ短歌が二十八首あって、慶応出身の弟子である大森義憲という人が巻物にして保存していたのですが、このたび「新潮」に掲載されることになりました。当時、彼は折口のために山梨県の忍野村から長尾峠を越えて食料を運んでいたのですが、晩年の柳田国男とも連句を巻いた連句好きの人で、この時期に折口と連句を巻いているんです。おそらくそのとき折口から渡されたものでしょう。十首余りは推敲を加えてのちに発表されましたが、大半は未発表といっていいものです。一昨年、山梨文学館での展覧会に一度だけ展示されたことがあります。
 まだ推敲以前のものですから、ナマでこなれないところもありますけれども、逆にそのおかげで、この時期の作品としてはかなり思い切った表現もみられます。
丸谷 「ほすゝきの山わたりゆく航空機送り見むかへみなあたのふね」。僕はとても新鮮な感じがして、これが一番いいと思いました。この歌は発表されているのですか。
岡野 これは未発表のものですね。僕も山梨文学館から読み解いてくれと依頼されて見たのが初めての作品です。「あたのふね」という表現が折口らしくて面白いですね。ほんの数日前まで爆弾の雨を降らしていた飛行機の巨体を空を渡る船ととらえ「仇の船」と言っている。
丸谷 国学院の予科生を中心として折口が指導した短歌結社に「鳥船社」というのがありましたね。船が鳥というのなら、航空機も仇の船になりうるわけです。「大君のたみにむかひてくいたまふみことをきゝて涕かみたり」なんかは、うまいことはうまいけれども、よくあるものでしょう。硫黄島で戦死した養子・春洋のことを想う歌は心がこもっていて感銘が深いけれども、新鮮さには欠けますね。
富岡 私は、歌そのものよりも、詠まれた時期に興味をそそられました。当時まだ子供で、八月十五日をこんなに痛切に感じる年齢に達していなかったのですが、それでも「愚者口を酸くして」に始まるやや長い詞書きをもつ歌のなかで最初の「さかしげに口をたゝきしいくさびとをわれにたまはね切りてほふらむ」は、ここまでストレートに普通だとなかなか言えないと思いました。
岡野 ふだんなら練りに練って表現をする人なのに、ここではまったく、そうした表現をかなぐり捨てていますね。
富岡 小さいときから歌に耽溺して、歌人としての技術があり過ぎるぐらいある人だから、その正体というのはなかなか見せないのに、こういうときに自分の真情を表わしていたのは驚きです。五つ目の「かちがたき炎闘のなかにはてにける心をぞおもふたゝかひをおふ」の「炎闘」という言葉はおそらく迢空のボキャブラリーにはないと思いますね。歌集に入れるときは「勝ちがたきいくさにはてし人々の心をぞ 思ふ。たゝかひを終ふ」というふうに推敲なさっている。でも、もとのかたちだと、日々が苦しいから歌を書いているしかないという感じが非常によく伝わります。

続きは本誌にてお楽しみ下さい。