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【冒頭部分掲載】

対談 1968と1972

四方田犬彦×坪内祐三


誰かが書いておくべきだ

坪内 二○○三年八月号から三ヵ月にわたって掲載された四方田さんの『ハイスクール1968』はとても刺激的な仕事でした。一回目が「新潮」に載った日に、僕はすぐ読んで興奮して、その日の夜に四方田さんのところに電話しましたよね。なんでそんなに興奮したかというと、一九六八年というのが、政治的にも文化的にも、大きなパラダイムチェンジがあった年であり、当時の若い人たちの意識革命が一番極まった年だというのは、今までもいろんな作品で語られてきましたけども、みんな結局、一つの分野のことしか語らないんですね。総合的に、しかも具体性をもって作品化されたというのは初めてではないでしょうか。
 この間四方田さんと立ち話をしていたら、「こういうふうに時代を過ごした人だったら誰でも書ける本ですよ」とおっしゃったけれど、こういうふうには書けそうで書けない。六八年というのは、その時の旬を味わった人たちには記憶が強過ぎて、つい昨日のことのような気がしてしまうけど、実はもう三十五年ぐらいたっている。今のうちにリアルタイムで体験した人間の誰かが記録しておかないと、もう完全に過去のものになってしまうんで、そういう意味でも重要な作品だなと思いましたね。逆に、十年前だったら四方田さんはこの作品、書けないでしょう。
四方田 十年前なんて、自分のことには余り興味がなかったですね。
坪内 自分のことに興味がないというだけではなくて、六八年や六九年の、ある種のトラウマがまだ生々しかったんじゃないですか。
四方田 何でこれを書き出したかというと、ダンテの『神曲 地獄編』の冒頭に「人生の道半ばにして道に迷いぬ」というのがあるじゃないですか。あの「道半ば」というのは、平均寿命の半分という意味ではなくて、死に近づき、周囲で次々と人が死んでいくのを意識するようになった、ということだと思うんですよ。ここ四、五年、自分が高校時代から知っている人間が少しずつ向こう側に行ってしまったので、その人たちのことを誰も記憶していないというのは寂しい、何か書き留めておかなければいけない、という気持ちが一つありました。
 もう一つは、自分が映画史の教師として、「一九六八年の映画」というゼミをやると、この頃のフィルムが人気があるのが判るのです。一九八○年前後に生まれた学生たちが見に来て、その中から足立正生の本をつくる編集者が出たりする。また、若松孝二や足立正生といった当時の監督たちにお願いして講演していただくと女子学生を含め学生たちが食いつくように質問するんですね。
「六八年の新宿というのは戦争をやっていたんでしょう。ものすごかったんですって。今のイスラエルみたいな感じでテロが起きてたんでしょう」なんて学生に言われました。彼らが興味を持っているのが判るんだけど、誰もそれを説明する人がいない。そういう本もない。なるほど、それはちょうど、僕が一九四五年の日本人の心情というのを知りたい、というのと同じなんだな、と思いあたったわけです。村上一郎や永井荷風を読んで、敗戦と占領下にいるという日本人の気持ちを何とか再現して理解したい、屈辱も開放感もみんな含めて知りたいという気持ちが、僕には強烈にある。それと同じように、今、八○年ぐらいに生まれた人たちが六八年のことを知りたがっている。だったら、誰かが書いておくべきだ。ベケットじゃないですけれども、「誰が書いてもいいし、誰かが書きさえすればいいんだ」という気持ちが僕の中にありました。
 極めて個人的なことを書いた作品には以前に、『ハイスクール・ブッキッシュライフ』(講談社)というのがありまして、あれは高校在学時代に読んだ本を再読するという本だったんです。ならば次に本を読む以外にどんなことをしていたか、ということも書いておいていいのではないか、と思ったんです。

続きは本誌にてお楽しみ下さい。