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【冒頭部分掲載】

アルカロイド・ラヴァーズ

星野智幸


 あなたの部屋が燃えあがっていると、編集部で残業をしていた咲子のもとに消防署から連絡が来たのは、終電もとうに過ぎた深夜だった。残務を放りだして咲子はタクシーを飛ばしたが、あと十五分で到着というところで渋滞に巻き込まれた。事故だか工事だかによる交通規制で車はぴくりとも動かず、業を煮やした咲子は自分の脚で走りだす。駅にして三つ分、走れない距離じゃない。
 咲子は走った、意味もなくやたらと汗を掻きたがる刑事みたいに。毎週ミニサッカーをやっていてよかったと思った。さもなければ、もう息が上がってへたり込んでいただろう。吸って吸って、吐いて吐いて。草原を駆け回っていたころに体得した長距離走の呼吸法で、咲子は走り続ける。後ろからせっつかれるように、あるいは、前から引っ張られるように。でも、何に?
 燃えて惜しいものなんか、何もない。それどころか、いつもいつも、全部丸ごと燃えてなくなってしまえばいい、このわたしも寝ている陽一もあの腐れ縁のベンジャミンも含めて、と乞い願っていたほどだ。だから、火事の連絡を受けたときは、わたしが真の犯人だと思った。
 それなのに必死で走っているのは、わたしも乗り遅れないためだ。ベンジャミンが燃え尽きるのをこの目で確認したいからだ。あれが焼けていく様子を想像すると、胸が高鳴り、鳥肌が立つ。ついにこの時が来たのだ、絶対見届けてやる。さもないと、抜け目ないあいつのこと、どこかに逃げてしまわないとも限らない。火事場のばか力を発揮して自分の根っこを引き抜き、外気にさらされた根っこがひりひり痛むのも気にしないで、咲子から遠ざかるほうへと走っているかもしれない。実際、そうしてあれは生き延びてきた、だから見届ける必要があるのだ。
 そう考えれば考えるほど、気は焦る。焦って脚を速めれば、息が切れる。
 おせっかいな消防士どもによってもう火が消し止められていたら?
 煙だけがくすぶる焼け跡を前に呆然とたたずむ自分の姿を思い浮かべると、咲子は脚が萎えそうになる。
 取り残されてはいけない。長い時間、待ちに待った機会なのだ。ベンジャミンが燃え尽きるのを見届けたら、陽一をも焼き尽くしている火に、わたしも飛び込むのだ。それがわたし自身の処刑であり、解放。
 それならどうしてもっと早く、自分から火をつけなかったのか? と、咲子は自問自答してみる。幾度も繰り返した自問自答。
 答えは単純明快、そんな、人間ごときの見え透いた意志など、すぐさまベンジャミンに見抜かれるからだ。だからわたしは予期せぬ危険を招くように暮らしてきた。そうしたいわけでもないのに、陽一を追いつめてきた。祈りが実ったのか、陽一はついにやってくれたのだ。ブラボー!
 などと喜ぶのはまだ早い。この目で火を見たわけじゃない。こうしてぬか喜びして、何度裏切られたことか。草木に比べ人間たちがいかに腑抜けで間抜けかは、もう十分思い知らされているはずじゃないか。
 咲子は、人間どもの鈍感さ、ふがいなさを考えると、舌に苦みが広がるのを感じる。あいつらはいつも高をくくっている、自分たちが傘の骨みたいな四方八方からのつっかえ棒に支えてもらってかろうじて直立していることに、まるで気づいていない。ランプの花より壊れやすいくせに、自分たちこそ頼られていると思い込んでいる。自分の胸三寸でどうにでもできると、哀れな誤解にすがっている。まったくクズどもだ。
 それなのにそんなクズの力を利用しようとせざるを得ない自分に腹が立つ。クズどもと暮らしていかなきゃならない世界に生きてクズどもの一員と見なされてしまうことが、いたたまれない。いや、それも嘘で、わたしはまごうかたなく、人間というクズの一員。こんな嘘をついてしまうことが惨めきわまりない。ベンジャミンとのことがなかったら、無用の長物である人間どもなんかと恋などしない。わたしが人間という鉛みたいな重しに引きずられて沈んでいったのも、要するにあの腐れベンジャミンのせいだ。
 ベンジャミンは汚かった。誰もそれがベンジャミンだとはわからないほどだった。人の背丈を大きく超えているそれは、何日も髪を洗わず、同じ寝間着を着たままの浪人生のようだった。ところどころ皮が剥げ、節くれだった太くいかつい幹は、カイガラムシの脂と煙草のヤニで真っ黒。出逢った当初は、観賞用として三本のスリムな幹が三つ編み状に捩れ合っていたが、ほどなく、強欲ないまのベンジャミンが筋肉に力を入れて他の二本を引きちぎり、殺してしまった。葉もカイガラムシの茶色い脂にまみれ、そのべたつきに埃が貼りつき、まるで灰色に黴びているかのよう。剪定なんてしないから、枝も葉も、伸び放題、繁り放題。むだ毛の処理も怠って、気根はもじゃもじゃ。土の中には小さな羽虫の幼虫が数限りなく涌いていて、始終蛹が羽化するため、ベンジャミンのまわりは得体の知れない細かな羽虫がいつも飛び群れている。
 もちろん、最初はこんなふうではなかった。小ぶりで美しい、人並みのベンジャミンだった。咲子はそれを、三十四歳の誕生日に、五番目につき合った男である陽一からもらったのだった。

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