四季 李恢成
一 台風がせまっている。 ヘルパーたちの話だと、強い台風が伊豆諸島とか八丈島の南方にあり、ゆっくりした速さで西北西にすすんでいるらしい。中心付近の最大風速は四十メートル。あさってには四国から九州にちかづく恐れがあるという。もっとも、西進すれば、韓国南端から朝鮮半島に上陸する可能性もあるとか。 この施設の中にいると、何が起ろうとも、そのことがまるで身近に感じられない。ことしは酷暑がつづいて、たいへんらしいのだが。テレビのニュースによれば、熱中症の患者が各地でふえ、うだって死んでしまう人も出ているそうである。お気の毒なことに。それにしても、「熱中症」という言葉は私の辞書のなかにはない。熱中症、熱中症……。むかしはたしか、「日射病」といっていたはずだが、アレとおなじものなのだろうか。意味がおなじだとすれば、なぜ言葉だけが一人歩きしてしまうのだろう。ちいさな疑問がつぎつぎに湧いてくるけれど、はっきりした回答が与えられることはまことに少ない。年々、疑問は忘れ去られ、枯れ葉のように私の頭の中から一枚ずつ落ちていき、朽ち果てていってしまう。 私の名前は、どこにでも転がっている石ころみたいなものだ。したがって、人さまに名乗るほどのことはない。けれどもこの施設のヘルパーたちは「グーさん」と呼んでいるように、さよう小生の姓はまぎれもなく「具(グー)」なのである。ついでに、フルネームをのべておこう。具光錫。朝鮮風に言えば、グー・グワンソクである。しかし、この施設のヘルパーたちは男女とも私の名前を日本式に読んでいる。具光錫(グコウシヤク)。フル・ネームで呼ぶ人はまずいない。みんな私のことを「具さん」と姓で呼ぶ。もっとも、ひとりだけ名前でしかも「公爵さま」と風変りな呼び方をしてくれていたのだが。なかなか気立ても筋もいい娘さんであった。私がいまでこそ老い衰えていても精神の公爵であることを見抜いていたのだから。もっとも彼女がお嫁にいってしまったあとは誰ひとりこの愛称でしたしんでくれる者はいない。いまごろ彼女は子供を生んでいるだろうか。 続きは本誌にてお楽しみ下さい。
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