十八階ビジョン 生田紗代
家の留守電に母からのメッセージが入っていたことに、夜になってから気がついた。空港かどこかの駅からかけてきたのだろう。受話器の向こうから、アナウンスや人の喋り声が聞こえた。 ――家出る時、あなたたちまだ寝てたから。お金は一万円置いといたからね。もし新聞の集金が来たら、そこから払っといて。お父さん、あと何か言うことあったっけ? ない? もしもし? じゃあ、行ってくるから。しっかりね。まあ、エリ子がいるなら大丈夫だと思うけど。 テレビで観ていた映画がいつまで経っても面白くならないので、リビングで軽く体操をすることにした。体操といっても、屈伸とかアキレス腱を伸ばす程度のものだが、それでも少し体を動かすと気持ちがいい。やっているうちに自然と「イッチ、ニィ、サン、シィ」と声が出た。一通りやり終わって、そのままリビングからベランダへと出た。 薄っすらとだが、電車のドアが閉まることを告げるベルが耳に入った。この辺は夜はいつも静かで、耳を澄ませばここから徒歩十分のところにある駅の音が聞こえてくる。電車が到着する音。そして出発していく音。 二十三階建てマンションの十八階のベランダから見える景色は、ほんの一瞬、胃の裏側あたりを冷たくする。周囲には、比較的新しいマンションが立ち並んでいる。高層マンションもあれば、五階建てくらいのものもある。まだ十時前なのでどの部屋にも明かりがついているが、見えるのはその無数の光だけだ。道路を走る車はどこへ行ったのだろう。申し訳程度に設置されている街灯の灯りは、ここから見るとほとんど意味を成していない。夜のニュータウンは死んでいる。たくさんの人が住んでいるのに、ゴーストタウンのようだ。朝になれば、近代的なマンションと色とりどりの一戸建てが公園を挟んで立ち並ぶ、明るい街に変身するのだけど。 ベランダの手すりから両腕をぶらぶらさせて、何ともなしに空を仰いだ。晴れている日は夜空でも雲がよく見える。視線を正面に戻せば、眼下には人がいるけどいないゴーストタウン。駅からは、ホームでは全面禁煙とさせていただきます、というアナウンスが、風に乗って私のところまで流れてくる。 「全面禁煙」と呟いてみた私の声は、響かずに風に吸い込まれた。 続きは本誌にてお楽しみ下さい。
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