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【冒頭部分掲載】

異邦人#6‐4

平野啓一郎


 アレズィア駅の構内に、ポルト・ド・クリニャンクール行の電車が到着すると、人の後ろに従うつもりで、わざと壁際に立っていた作品6の4の主人公(以下#6‐4と略)は、ショルダーバッグを前に回して、片手でそのファスナー付の口をしっかりと押さえながら、怖ず怖ず前へと進み出た。先に並んで待っているのは、25、6歳の袖のないワンピースを着た白人の女と、その仕事の同僚らしいスーツを着た背の高い黒人の男である。男の方が若いのか、大人と子供ほど背丈が違うのに、見ていると、まるで上から見上げているような話しぶりである。通勤時間だけに、構内にはそこそこに人がいるが、彼らの前後の扉には誰も並んでいない。#6‐4がわざわざ、この二人の尻についたのは、ガイドブックで予習した手動扉の開け方が、今一つよく分からなかったからである。
 さりげなく、それでも覗き込むようにして前を見ていると、まだ完全には車両が停まりきらないうちに、彼らではなく、中の乗客の方が先に扉を開けてしまった。どうやら、銀色のレヴァーを上に回すようである。やっぱり見ておいて良かったと、この日初めてメトロに乗る彼は、確認するかのようにそう思った。そうして、一つずつ、見て覚えていけばいいのである。すぐにブザーが鳴りだしたので、#6‐4は、二人に続いて慌てて電車に飛び込んだ。が、扉は半分閉じたままで、止まってしまった。これも最後は、手で閉めるのだろうか? まさかとは思ったが、不審気に、乗客がこちらを見ている様子からすると、そうなのかもしれない。生憎と今、扉の一番近くにいるのは彼である。どうしようかと、目で合図するつもりで周囲を見渡したが、誰も応ずる者がない。思いきって、さっき見たレヴァーに手を伸ばしかけた丁度その時、扉はそれを待っていたかのように動き出して、真ん中でぴたりと合わさった。冗談さ、とでも言いたげなタイミングだった。
 何だ、バカにしやがって、と日本ではまず口にしないような文句を、何故か落語めいた調子で胸に呟くと、それでも、何もせずにすんだことにほっと安堵した。思わず零れそうになった笑みを、場違いな場所にうっかり持ち込んでしまったガムのように、処理に困まって呑み込んだ。
 振り返ると、当たり前だが、車内はフランス人だらけである。何人かが、ジロリとこちらを見て、また目を伏せた。街中では、もうだいぶ慣れてはいたものの、こうして閉じ込められてみると、単に擦れ違うというのとはまた違って、本当に自分が、今外国にいるのだということを感じる。耳にはいるのも、目に映るのも、すべてフランス語である。何一つ、彼には分からなかった。
 #6‐4は、西麻布の居酒屋の厨房で働いていた料理人である。居酒屋といっても、威勢のいい従業員の声がここかしこに飛び交っているチェーン店ではなく、もう少し照明が暗く、値段が高く、『Kind of Blue』だとか、『Portrait in Jazz』なんかがかかっていて、情報誌には「創作和食/ダイニング・バー」などと紹介されている、その手の店である。高校を卒業して、すぐに働き始めたから、3年間ほど勤めたことになる。若いけれどもよく働き、料理の覚えも悪くないので、新しい店を出す時には、お前に調理場を任せてやろうなどと、まだ30代の若い社長から何時もハッパをかけられていた。

続きは本誌にてお楽しみ下さい。