サッド・ヴァケイション 青山真治
夕陽が斜面の木々を染めていた。あのトンネルを前に、琥珀の内側に閉ざされて時を止めたように見える場所だった。その場所で男は、もう一度バスを降りたのだった。しんとした、草いきれの混じる冷えかけの空気を吸いこむと、バスからバスへ、それから二本の列車、そしてさらにバス、と何度も乗り継いでとうとうここまで来た、というように男は、前のバスを降りて以来ずっと溜めてきた息もろとも、ひと思いに吐いた。地図上で言うならそれは、衛星写真が捉えた台風の、九州という島のちょうど中心から時計回りに描く雲の影の放物線が、遠心力で男をその外へ放り出すようにも思える行程だった。九州に暮す者にとって、台風は生き物だ。しかし男の旅程は、この山あいと同様、静かすぎた。 腰の辺りに座り続けた鈍い疼きが残っている。 時の壁を突き崩してバスが走りだす。排気ガスとともに埃が舞い上がった。 二度と来ることはない、と思っていた場所だった。トンネルに入ったバスのエンジン音がその内部から響いてくる。すでに二十代も半ばにさしかかろうというのにまだ子供時代の面影をひきずった顔を伏せ、男はその響きに耳を欹てた。暑くもないのに、音に反応してねっとりといやな汗が滲み出る。 響きの失せるのをたしかめてから、顔を上げ、再びトンネルを見た。 かつて訪れたあのときと同じく、山蔭で叫び声を上げたまま凍りついた巨人として大きく口を開けたその向こう側、溶け落ちる夕陽の色に染まった半円状の明るみが見える。その巨人の口にあえて呑まれようとするように、あのときもまたそうしたことを一歩ずつ思い出し、かつあのときとのちがいを確かめながら、歩調を似せるようにして歩く。 トンネルの中で、自分の足音が時計の針を巻き戻す音として聞こえるのに戦慄しながら、男はしかし頑として歩くのを止めず、それが自分のたった一つ、なすべきことだというように、ただ聴いた。誰のためでもなかった。 トンネルの内壁は、かつてのように男に性の妄想も死への期待も抱かせることはなかった。女の膣でもなく母の産道でもなく、崩落することも忘れ、ただ古びのついた凸凹のコンクリ壁にすぎなかった。男は申し訳程度に軽く見上げるだけで、まっすぐに光の来る方へ昏い風を浴びながら歩みを進めた。 逆側に出ると、全身が夕陽に赤く染まるのがわかった。旧友との再会にはにかんで頬を火照らせるように熱くなったと感じて、たじろいだ。 晩夏の白昼だった。あのとき、旧友は、路傍に設置された上り方面のバス停の前に立ち、トンネル内に隠れた自分に向かって、足元から拾った石をサイドスローで投げた。男は道化師のようにジャンプして石を避けた。 こんなところで何をしているのか、と訊いてきた。 お前こそ何やってるんだ。 きさんに関係なかろうが。お前こそ何しよんか。 子供らしい、そんな性急なやりとりがまだ耳朶にふきだまっているのを感じながらバス停に近づき、上りのバスの時刻を調べた。夕刻は一時間に二本のこの路線は、あと十五分で次のバスが来て、その後は一時間後になる。たった十五分で再会を済ませなければならない。 いや、じゅうぶんだ。 続きは本誌にてお楽しみ下さい。
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