本・雑誌・ウェブ

【冒頭部分掲載】

特別対談
女性性の根源へ


金原ひとみ×斎藤環


    生の否定から生れるもの

斎藤 今回は対談相手としてご指名頂いたそうで、大変光栄です。
金原 芥川賞を受賞した後に書いていただいた『蛇にピアス』の書評がすごく印象に残っていたので、いつかお会いさせていただきたいと思っていたんです。
斎藤 それは、どうもありがとうございます。あれは読まれないだろうと思って、なんだか好き放題書いてしまって失礼しました。ついでにというとなんですけど、その時感じた疑問も含めて、今日はいろいろ聞かせていただこうと思います。
金原 よろしくお願いします。
斎藤 僕は著書『若者のすべて』の中で、現代の若者を、大きく「じぶん探し系」と「引きこもり系」の二つに分類したんです。「じぶん探し系」というのは例えば「ギャル系」のことで、非常にコミュニカティブで友人も多く、性的にも早熟なタイプ。「引きこもり系」は例えば『電車男』なんかに描かれるオタクが典型で、コミュニケーションが不得手で内向的、性的にもオクテな人たちです。これまで小説家というと基本的には、男女ともに引きこもりタイプが多かったと思うんです。まあ山田詠美さんのような方もいるから、一概にはいえないのかもしれないけれど。金原さんがデビューしたときに、そういう意味で全く新しいタイプの作家ではないか、と感じました。「引きこもり系」の文学少女ではなく、純粋な「ギャル系」から、金原さんのような作家がでてきたのは画期的ですばらしい、そこにまず感動したわけです。ちなみに、本屋と洋服屋だとどっちに行くことが多いですか。
金原 洋服屋です。「引きこもり系」か「ギャル系」かといわれれば「ギャル系」なんでしょうか。
斎藤 あくまで、強いて分類すれば、ですけどね。でも、そのあとお書きになったものやインタビューを読んでいると、実は「引きこもり系」かもしれないという気もしてきました。私もインタビュー取材をしたことがあって、その経験から言うと、一般に「ギャル系」の人たちは本をまず読まないし、文章を書くのは、携帯メールだけという人が多いですからね。
金原 私自身、引きこもるときは本当に引きこもってますけど、友達と遊びに行くと、言葉づかいもパッと変わって高校生の頃に戻ったりもする。いったいどっちなんでしょうね。
斎藤 もちろん狭い分類にくくる必要はないので、才能のある人ほどそのあたり、かなり複雑で入り組んでいますしね。それに、どんな活動的な作家でも、書く時は一人で引きこもるしかないわけですから。
 ところでデビュー作『蛇にピアス』のスプリットタンとか、『アッシュベイビー』の自分の太腿をナイフで刺すとか、身体改造や自傷行為が重要なモチーフとなっています。以前からそういうものへの関心はあったのですか。
金原 実は『蛇にピアス』を書いたときに、初めて「スプリットタン」を知って、そのとき若干興味を持って調べたぐらいです。身体改造自体にとくに関心があるというわけではないですが、自分の「セイ」に対する否定的な感覚をどこか持っています。
斎藤 「セイ」は「性」ですか、それとも「生」ですか。
金原 「生きる」です。
斎藤 「生」に対して否定的というのは、どんな感じでしょう。それこそ「死の欲動」みたいなものですか。
金原 生きることを否定することでしか生まれない生命力というのがあると思うんです。「去勢」というのに近いかもしれません。
斎藤 なるほど、「去勢」というのはぴったりですね。最新作『AMEBIC』(集英社刊)でも、主人公の拒食状態は自傷同然といってもいいほど苛烈なものですね。でも、本人は至って活動的で、創造性にあふれている。実際、拒食症の人はほとんど食べないのに著しく活動的な方が多いんですね。そういう逆説が、この作品には沢山仕掛けてあります。ほかにもコルセットについての描写で、「縛られる解放というのも、ある」というフレーズがあって、これも凄く印象に残ってるんです。とくにサドやマゾとは関係があるわけではない、拘束による自由さみたいなものは、僕も常々感じているんです。そういう拘束による解放感と「生」への否定的感覚とはつながるものですか。
金原 深い所で繋がっていると思います。すごく感覚的なことになるのですが、私自身コルセットを締めると、逆に気が楽になるような解放感を感じるんです。
斎藤 それは何から解放されるんでしょうね。自分自身の身体から。
金原 でも、コルセットを締めるまでは、縛られている意識はないんです。解放されてみて、初めて気づく何かなんです。

続きは本誌にてお楽しみ下さい。