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【冒頭部分掲載】

拍手と手拍子

佐藤 弘


 部屋からは首をかしげるようにして顔を外に出さなければ商店街を一瞥することは出来なくても、二階の角部屋のこの少し無理な体勢から見る風景が僕は好きで、それはこの部屋に入居してきてすぐに発見した。風呂に入る前に室内をクーラーで冷やしておいて、上がった時にその涼しさを味わうのが夏の醍醐味で、それもしないで扇風機も使わずに窓を開けっぱなしにして涼むのは今年始めてだ。
 八百屋が一番手前に見えるから、店頭の野菜が置いてあるところが様々な色でごちゃまぜになっているのを遠くから見ると、もしそれが野菜だと見る人が知らないならばおそらく汚いと感じる按配になっている。それでもやっぱり野菜だと分かっているから汚いとは感じないし、商店街に八百屋、といったイメージは子供の頃から誰に教わったというわけではないのに絶対に欠かせないもので親父は威勢が良くて、といった紋切り型の考えばかりが浮かぶけれど、あの八百屋の主人は客がきても椅子から立ち上がりもしないでぶすっとしている。豪勢に果物が食べたい時にあの八百屋で買う時もあって、その対応の悪さに腹が立つし、家から商店街とは逆の方向にあるスーパーで買う果物となんら変わらない味なのに、それでもやっぱりあの八百屋で買ってしまう。値段は八百屋のほうが少し安い。
 そのことを沢田に言うとそれは八百屋の親父が客の固定観念に抗うために愛想を悪くしていると言うが、もちろんそんなことはない。でもやっぱりここから見る八百屋は現実としてではなく紋切り型のイメージ通りに立っている。
 八百屋の向かい側にはお好み焼き屋さんがあって、僕はよくそれを晩御飯として買っている。女の子の店員は愛想が良くて結構かわいい。ここからだと店内は見えないのだけれど、ちょうど子供とその母親がお好み焼きを買っているのが見える。母親がお好み焼きの入った手提げ袋を子供に渡すと嬉しそうにその子は手提げ袋をぶらぶらと振り回し、それを母親にたしなめられて手をつないで駅のほうへ行ってしまった。
 コンビニやスーパーは真っ白というイメージで、商店街はなぜだか黄色い。さっきの親子もその黄色の灯りの中へ消えていった。
 ヘッドフォンからは小さな音量で音楽が聞こえてくる。ヘッドフォンをずらしながらまだ生乾きの髪をタオルで拭くと、カサカサという音が混じってくる。その音は遠くのほうに聞こえるようで、でも音楽のほうも小さな音量で鳴っているから意識的なはずの音楽からも僕は切り離されていくようになって、それに連れ去られていくように眼前の風景が離れていってしまう。本当は僕の頭のほうが風景から離れていっているのだけれど、あれよあれよという間に視界がぼやけていく。確かなのはカサカサという音だけで、タオルで拭いている手のほうは最早音を立てるために動いている。音楽はすでに風景になっている。その風景と確かな手ごたえの音は、今聴いているCDは昨日買ったものだけれどもう何回も聴いていて買って良かったとか、左目にゴミが入っても面倒だから涙を流したままにしておけだとかの思いとは別に何かを思い出させるかのようで、目の前のお気に入りの風景の中に何かあるような、見えるような気がする。その予感の風景の中に僕が見つけたのは商店街の黄色の人混みの中からスルスルスルと早足でこっちのほうへと来る由香だった。急いで早歩きをしているのが早送りをしているみたいに見えて、背が小さいから余計にカクカクとおかしい。由香の姿が僕を瞬時に現実に引き戻したのでヘッドフォンを外した。商店街を抜けて灯りが届かなくなったあたりから僕が部屋から見ていることに気がついて、大きく手を振りながら歩いている由香は、さらにカラクリ人形みたいな様子になって「たろうー」と僕の名前を呼んだ。
「声が大きいよ」
「今日は太郎の家に来たんじゃないよ。お風呂上り?」
「どうしたの、今日は」
「今日は良子の家で飲むの。太郎は呼ばないよ、今日は女の子だけだから」
 良子なんて人は知らない。「一人で飲むからいいよ」と言った。
「一人なの?」
「一人だよ」
「じゃあ、太郎と遊べばよかったかな」
「いいよ。いってらっしゃいな」
「かぜにきをつけて」
「風に?」
「風邪、に、気を、つ、け、て」
 今日は風が強かった。由香は行ってしまった。季節の変わり目を考慮してそういう一言を言える由香が僕は好きだった。ヘッドフォンを着けなおすとCDはもう終わっていた。

 朝起きると鼻がつまって鼻水が出ている。由香の言うとおりになってしまった。季節の変わり目には本当に僕の身体は弱くて、普段は引きにくくてもこの時だけはいつも風邪を引いてしまうのに、そのことを思い出すのもいつも引いた後だ。教室の席を確保してから廊下のベンチに座っていると、沢田が向こうのほうから「たろう!」と僕を呼んで、最後の「う」を伸ばして抑揚のないだらだらした音を発しながら「久しぶり」と僕の横に座った。沢田とは夏休みの間一回も会っていなかった。家から大学まで歩くと少しまだ暑く、ベンチ一つ分離れたところに座っているのに沢田はなんだか暑苦しくて、その名前の最後をだらしなく伸ばすような雰囲気がまさに沢田だ。といっても僕は沢田のことを嫌いではない。暑苦しい男子の中では稀なくらいに相性が合う。ただ今は暑くて風邪を引いていて鼻水が出ているしでかなり煩わしいのに、沢田は「俺、彼女と別れちゃってさあ」と嬉しそうに言ってきた。その手の話は僕も好きなのだけれど、沢田の場合はすぐ別れてすぐ付き合ってばかりを繰り返しているのでいつも相手が全く分からないからあまり興味が湧かない。恋愛の話よりも、セックスのみの話のほうが俄然盛り上がるのだけれど、沢田はいわゆる遊んでいるというのと全く違って、一人と付き合っているときは絶対に他の女の子とはセックスをしない。ただすぐに別れてしまうだけだ。それも振られるほうが断然に多い。沢田と過去付き合った女の子に話を聞くと「なんか、違う」という風に曖昧で、嫌いでもないしどっちかというと好きなのに、でも恋愛の対象としては違うといった感じで後腐れが無いから過去付き合った女の子のほとんどが別れても沢田とは友達のままだ。この非常にバランスの良い潔さが僕とも仲の良い理由だと思っている。そしてそのバランスの良い潔さがとても羨ましいと思っているし、それを沢田に言うと、そんなことはなくていつでも別れる時は切なくて、傷つくらしい。それがまた沢田のバランスの良いところなのだ。

続きは本誌にてお楽しみ下さい。