顔のない裸体たち 平野啓一郎
0 「大阪城にて」 以下に描出されるところの光景は、某氏の提供による多数の資料中、DVDによって記録されていた映像に基くものである。ラベルには、「〈ミッキー&ミッチー〉:九月某日:大阪城にて」とある。当時、これとほぼ同内容で、撮影の日付及び場所のみが異なるDVDが他に二本、インターネットを通じて通信販売されている。残念ながら、それらに関しては、筆者は静止画像を通じて断片的に知り得たに過ぎないが、小説の冒頭で、この後扱われる内容の雰囲気を極簡単に伝えるという目的のためには、入手し得たDVDのみを取り上げることで十分かと思われる。 些か特殊なテーマであるため、これがあらゆる読者にとって適切であるかは分からない。そこで、斯くの如き一章を設け、予め作品の主題を紹介し、この手の問題に関心の薄い、或いは著しく嫌悪感を覚える読者が、貴重なる時間を徒費せられることのないよう、一工夫してみた次第である。 尚、これは、作品の要約ではなく、部分的な紹介であるため、本章の印象が読後のそれを保証するものではないことを予め付言しておく。 さて、映像の撮影場所は、ラベルの通り大阪城である。 冒頭、断片的に周辺の風景が収録されているが、それを見る限り、場所は恐らく、本丸天守閣の丁度真裏で、山里丸を見下ろす鉄砲方預櫓跡から蔵方預櫓跡にかけての一帯である。 撮影者は男性で、彼はただ、その体の一部が画面に映るのみで、顔は明らかにされていない。被写体は女性であるが、こちらは顔をモザイクで覆われている。声にエフェクターは掛けられていないが、二度ほど互いの名を呼び合う箇所が、「ピーッ」という信号音に差し替えられている。 全般に亘って、手ぶれが酷く、また殆ど編集されていないので、時折、ノイズのような場面も差し挟まれる。 日付は「九月某日」とされているが、恰好から察するに月末であろう。時刻は夕方の六時前後。人の少なさからして、平日の可能性もある。 空は澄んでいて、うっすらと柑子色が挿しているが、陽が落ちるまでにはまだ時間がありそうである。流石に遮蔽物もなく、中央区の高層ビル群が一望され、背景の青に映えて美しい。伊丹空港に発着するジェット機の音が、雲一つないその空間に奥行きを与えている。頭上では鴉が、足許では雀が鳴いている。更に、姫門跡辺りにいるのではないかと思われるが、大道芸人の恐ろしく音の外れたバグパイプの演奏が聞こえてくる。その他、遠くのビル工事の音、大阪城公園の案内のアナウンスなどが、周辺の音として収められている。 石垣に沿って木製の手摺が設けられており、それと平行して、色の褪せた青いベンチが外向きに並べられている。そこは、一段高い土手である。 カメラは、その土手を左手にし、右手に焦茶色のフェンスを連ねた小道を、女が歩いてゆく様を追っている。女の服装は、ベイビー・ブルーのカーディガンに薄いグレイのベア・トップ、色落ちしたデニムのミニスカートに黒のミュールである。手には白いトート・バッグを持っている。 女は、時折、後ろを振り返りながら歩いている。そして、「もっと先?」だとか、「人がいないね。」などと、カメラの男に語りかけている。表情は分からない。それに対し、男はただ、「おォ、」と鼻母音的な返事をするのみである。周囲に人影は一切ない。 左手に山里丸へと下る階段が見えると、男は、 「おっ、そこエェんちゃう?」と声を掛けた。 続きは本誌にてお楽しみ下さい。
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