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【冒頭部分掲載】

いい子は家で

青木淳悟


 飲み遠出、飲み遠出と、「そこそこの関係」というものをつづけてきて、都内で飲んだ帰りの終電車をうっかり逃した夜、宮内孝裕はようやくその女 ともだちのマンションルームにたどり着いたのだった。
 それまでは飲み明かしたりすることもなく、遠出といってもたんに海岸まで出て みるとか、山麓やら湖畔やらを半日かけて巡ってみるとか、いいとこせいぜい日帰り 温泉に行くくらいが関の山で、家族が車を使わない日にキーを借り受けて関東周辺を ドライブしていたわけだが、車を出して翌日まで戻らないというようなことは一度も なかった。車での一泊旅行となれば親に反対されかねないし、賛成なら賛成でいろい ろと問い質され、いい含められ、ひどく大がかりなことになるのは目に見えていた。 気晴らしをしに行くのに、それでは家を出る前に疲れてしまう。
 この穏やかな家庭に波風を立てたくない。孝裕は親の前で自分の交友関係を口に するとき、女ともだちというべきところを男ともだちに置き換えて話した。東京でひ とり暮らしをしている、いっしょに飲んだり出かけたりする間柄だ、彼とはこれから も仲よくしていきたい。親はおそらく信じている。
 親といっても母親だった。家というのも母親の待つ家のことだ。家族は四人いる にはいるが、父親は仕事で毎晩帰りが遅いし兄はとっくに家を出ていた。母親が家で 一人夕食を用意して待っているわけで、ごく自然なこととして夜は帰るようにしてい た。
 そんなある日のこと、家にはみんなで花見をするといい置いて女ともだちと二人 で会い、遅くなりそうだから夕食はいらないと途中で一度電話を入れ、休日運行の終 電車に乗り遅れていよいよ外泊するとなったとき、孝裕はふたたび電話で仲間の家に 泊めてもらうと、半分は本当のところを報告した。それからも二度三度、なにかしら の理由をでっち上げて朝帰りをしたが、そうした配慮が煩わしくて泊まりはなしに なった。
 自宅から電車で小一時間かけて都内のマンションへ通い、だいたい夕食時までに は帰宅する、という往復をくり返した。会いに行くのは週三日を限度とした。電車と はいえ交通費はばかにならない。家を出るだけでほかにいろいろと金がかかる。いま だ小遣いをもらう身で、しかも預金通帳を見られているため、急にその残高を減らす わけにはいかなかった。
 支出面のことにかぎらず、いまや彼は行動全般に気をつけるようになっていた。 秘密主義を貫くのには細心の注意が必要だった。
 前に一度、出先で脱いだ靴下がなかなか見つからなかったことがあって、靴下靴 下と部屋じゅうを探しまわるうち、「もしこのまま素足に靴で帰宅したら」と想像し て不安になり、「たかが靴下、されど靴下」などと感じてからは室内でも脱がないよ うにしていたのだが、あるとき母親が、
「どこを歩けばこんなに裏が汚れるんだろうねえ」
 とその靴下を洗面所で手もみ洗いしていた。どこをといわれてどきっとして、い くら掃除をしても綿ぼこりの溜まる、あのマンションルームのフローリングを歩くか らだと気づき、やはり靴下は脱ぐことにしたのだった。
続きは本誌にてお楽しみ下さい。