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【冒頭部分掲載】

坂口安吾 百歳の異端児

出口裕弘


プロローグ 正体、いまだ知れず

 南フランスの、深い森の奥の精神病院をひとりの男が訪ねる。見舞いでもなく視察でもない。かねがね噂を耳にしていたので、旅の道筋でもあることだし、ふらりと立ち寄ってみようか。そう考えただけのことだ。
 同行の紳士がたまたま旧知の仲だったため、院長は快くこの訪問者を迎え入れた。男はすぐ、明るく清潔な客間へ案内される。暖炉には薪があかあかと炎を上げ、若い女がピアノを弾じながらベルリーニの詠唱(アリア)を歌っている。
 もともとこの病院は鎮静療法で名を挙げていた。処罰なし、監察なし、陰からこっそり監視はするけれども、患者は市民並みの服装で室内も構内も自由に歩き回れる。勇気ある実験、というので評判の精神病院だった。
 しかし現在、その鎮静療法は廃止になっていると院長はいう。この療法は怖るべき危険を伴うとわかったため全廃し、ただいま本院では、まったく別の療法を用いておりますというのが院長の言葉だった。
 そうこうするうち歓迎の晩餐会が始まった。テーブルを囲んだのは看護人を含む二十数名の従業員たち、うち三分の二は女性である。高齢者が多いと見たが、それにしては服装が派手だ。装身具もほうと嘆声を誘うほどのきらびやかさである。
 食事も豪華で、ついには仔牛の丸焼きまで運び込まれる。まばゆいばかりの蝋燭の照明、楽士たちが奏でるヴァイオリン、オーボエ、トロンボーンの音は華やかすぎて脳がしびれそうだ。
続きは本誌にてお楽しみ下さい。