火の旅 日和聡子
眼窩を箸でえぐると、光子は目玉を口に入れた。 「頭がよくなりますように。」 そうつぶやいた声は、店の喧噪にかき消されて、光子自身の耳にも届かなかった。 煮魚、刺身、穴子寿司……など、狭いカウンターの上にいっぱいに並べられた魚料理の数々は、さきほどから、光子ばかりがいそがしく箸を動かし、かき込むようにして食べていた。 「味わっています。」 光子は隣に座る殿村に、時折そう言い訳するように断らずにはいられなかった。皿は逃げない。もっと落ち着いてゆっくり箸を動かせばよい――。そう思ってはいても、ブレーキの壊れたようになった身体は、まるで言うことをきかなかった。 「完全なる餓(かつ)え子、だね。」 そう言われてあらためて皿をすすめられると、光子はにわかに眉根を寄せ、いやいやをして、すでに自分があらかた食べつくした空に近い刺身の皿を、殿村の方に押し戻した。 「いいえ。もっと、召し上がって。あとは全部――。」 と光子は殿村の顔を見つめて懇願するように言った。殿村は、その顔を見ると鼻で笑って目を逸らした。そして椅子の背にもたれかかって、燐寸を擦って煙草に火を点けた。 「あとは全部、か――。」 皿の上には、もうつまのほかには赤身が一切れしか残っていなかった。その大きく切られたまぐろの身を、殿村は光子に食べるようにと顎でうながした。光子はふたたび顔をしかめて首を振った。殿村が煙を吐き出しながら少し笑って、もう一度光子にうながすと、光子は殿村の顔を見つめてから、勝敗ははじめから決まっていたかのように、今度は素直に箸を取った。そして最後まで水気を失わないその赤い身をつまみ上げると、わさびや生姜でどろりと濁った醤油につけ、大きな舌を絡めとるように、べろりと口に飲み込んだ。 続きは本誌にてお楽しみ下さい。
|