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【冒頭部分掲載】

その街の今は

柴崎友香


   1
 ゆっくりと、だけど決して停まらずに進むタクシーがずいぶんと道路にはみ出した看板と自転車をどうして引っかけてしまわないのか、感心して眺めていた。羊羹みたいに黒く光る車体には、さっきまでいた店の看板の白と青のライトが映って流れていった。なんの音が、というわけではないのに騒々しくて、夜の東心斎橋の感じだと思った。エアコンで冷え切った店から出てきたばかりなのに、もう肌には汗が滲みかけている。
「すごいねえ、あの頭」
 放置自転車の隙間にぼんやり立っていた智佐が気の抜けた声で言う。四つ辻の向こう側に、紫のシフォンのワンピースを着たたぶんわたしたちよりずっと若い女の子が、すっかり酔ったおじさんたちを見送りに、出てきていた。白い胸元を自慢するような彼女は、金髪に近い茶色の巻いた髪を盛り上げて、後頭部が三倍くらいの大きさになっている。
「三面鏡買うたらいいのにね」
 智佐が勤めるセレクトショップの同僚のえみちゃんが、やっぱりどうでもいいような口調で言い、わたしも適当に頷いたけれど、それ以上誰もなにも言わない。途切れることなくタクシーばかりが通り、油断すると足を轢かれてしまいそうだった。角の手前には、まだ蒸し暑いのに黒いスーツを着たホストの一団が、なにか相談している感じで集まっていて、じっと見ているといちばん背の高い一人と目が合った。だけどわたしたちに声を掛けてくる様子はなかった。タクシーと幅の広い銀色のベンツの間を、器用にすり抜けた自転車の女の子はキャミソールにミニスカート、それからビーチサンダルみたいな足下で、もう九月も半分過ぎたのにと思うけれど、それも仕方ないくらいまだじゅうぶんに夏の夜の空気だった。
 隣の店の立て看板を挟んで立っている合コン相手の三人の男の人たちは一言もしゃべらず、それぞれ自分の携帯電話をいじっていた。それを横目で見た智佐とえみちゃんが、なにか言いたそうに顔を見合わせた。
 会計をしている百田さんがなかなか出てこないので、わたしは肩に掛けているトートバッグを開いた。街灯や看板の光にうっすらと照らされた鞄の中には、絵はがきの束が入っていた。昨日、バイト帰りにジュンク堂に寄ったらフェアコーナーの片隅で昔の絵はがきを売っていて、三十枚ほどがひと束で八百円というのが高いような気もしたけれど買ってしまった。だいたいは観光地の白黒写真が印刷されたもので、いちばん上になっていた一枚が使ったあと、つまり宛先と差出人と文章が書いてあって消印が押されていて、それから写真が道頓堀だったので買った。紐でしっかりくくられていたので中身を見ることができず、期待に反して他は未使用で、東北や九州の風光明媚な場所が多かったのだけれど、大阪の写真を三枚見つけることができた。かなり修整されているから写真というよりそれを元にした絵に近いものだけれど、戦前の道頓堀の中座の前あたりの幟や看板が立ち並んで人が大勢歩いている風景は、なんとなく今のその場所と賑やかさは似ていて、でも建物の密度が違うせいかやっぱりとても昔のように感じた。奈良の誰かから京都の誰かに宛てられたその文面は、崩し字で書いてあって時候の挨拶以外読めなかった。今ホストが立っている、目の前の角を右に曲がってまっすぐ行くと相合橋に出て、道頓堀川を渡るとこの写真の場所に出る。写真の中座は空襲で燃えて、その次に建てられた中座もガス爆発で燃えたからもうないけれど。道順を辿るように看板の光る周りの建物を眺め、また鞄の中でぼんやりと見える葉書を確認した。この葉書を送った人が実際に中座に行ったのかどうかわからないけれど、もしかしたらこの辺まで歩いてきたかもしれない。
続きは本誌にてお楽しみ下さい。