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【冒頭部分掲載】

暗渠の宿

西村賢太


   一
 その女と棲み始めたのは、残暑と云う名の猛暑がまるでおさまる気配もない九月――その九月も、そろそろ半ばにさしかかろうかと云う頃である。
 二人の暮しを一緒のものにするにあたり、はな、女は間取りについては狭くとも良いから、築年数の浅い、出来れば全くの新築による鉄筋アパートに入ることを望んだのだが、私の方では今、独りで住んでいる新宿一丁目の八畳一間の豚小屋に、あれで三千冊強はあるはずの蔵書を詰め、さらには藤澤清造の、その能登の菩提寺から預らせてもらっている、かの大正期作家の老朽の果てに取り払われた木製の墓標を抱え込んでいる身であっただけに、是非ともこの機会には、たとえ築年数は古くとも、これらのものをゆったり収納できるだけの、さらには女との生活空間も多少は確保し得る、慾を言えば三間は備えた賃貸物件を探すことを強硬に主張したものだ。
 そしてまた、女はなるだけ室料の安い郊外――それはうんと賃料相場が低くなる、都心からかなり離れた地域の、尚かつ最寄りの駅からバスを使うような場所をもいとわぬことまで言いだしたのだが、無論私はそれに同調できず、あくまでも、ただひたすらひとりの恋人を得ることを夢想しながら一度として実現をみず、十年と云う不毛の日々を虚しく経ててしまった新宿界隈でこそに、このようやくに巡り会うことのできた六歳年下の女と暮す意義があるものと、勝手に決めつけていた。いや、意義と言っては大げさになって、ちと当たらないかも知れぬ。言うならばもっと単純に、愛しいこの女が放つ甘く優しい体臭に包まれながら、これまでと同じ風景を、従来までとは全く違う状況のもとで見くだすことができたらどんなにいいだろうか、と考えたのである。過去の、おのれが独りで出した精液臭にのみまみれた、不様で惨めな生活に復讐する為にも、それはどうでもやってのけてみたかった。
 それで当時、京王線の布田辺にアパート暮しをしていた女とは前日の夜から合流し、翌朝、と云っても昼過ぎから二人で近くの不動産屋を廻り始めることにしたのだが、私のはなの意気込みとは裏腹に、こちらが望む間取りと予算とのうまく折り合いのつく部屋と云うのは、なかなかに見つからなかった。五軒も廻ると、早くもこの界隈と云うのは断念せざるを得なくなり、これで三光町から先や四谷方面と云ってはもっと相場が高くなるだろうから、仕方なく曙橋まで下りてゆき、富久町か余丁町、あるいは若松町辺までは譲歩するつもりで再び探してみたものの、このエリアもご多分にもれず、ワンルームならば選りどり見どりの態なのに、三間となるとどこも賃料十五、六万からの話になってしまい、こちらの予算である月額十万円前後、なぞ云う希望は、いかに虫の良い話であることかを思い知らされる始末ではあった。

続きは本誌にてお楽しみ下さい。