【冒頭部分掲載】

1000の小説とバックベアード

佐藤友哉


 ヴァレリイを読めば、ヴァレリイ。モンテーニュを読めば、モンテーニュ。パスカルを読めば、パスカル。自殺の許可は、完全に幸福な人にのみ与えられるってさ。これもヴァレリイ。
(渡り鳥/太宰治)

第1章 約一万四千冊の本たちから遠く離されて

1 作家志望者はまず無職になれ
 仕事をうしない、着弾点をわざと外されたような気分になったその日、僕は二十七歳になったけれど、家族からは愛されて育ったし、自分を嫌う子供じみた幸福時代は終わっていたので、コンビニエンスストアでショートケーキとワインを買って誕生日を祝おうとしたが、蝋燭がなかった。
 誕生日ご愁傷さま。
 アパートに戻った瞬間、チキンを買い忘れたことに気づく。ケーキとワインだけではどうも物足りない。だけどもう一度出かけるのは面倒だし、真夏にチキンは不釣り合いなので、冷蔵庫から生ハムとカットチーズを取り出して、八畳間の床に広げた。
 二十七歳の誕生日に自由にチキンを食べられないのは確実に悲劇だ。
 さらに二十七歳の誕生日に仕事をクビになるのもまた確実な悲劇だ。
 一日二百本もの煙草を喫っていた小説家、石川淳は、体操して、執筆して、飲酒して、牛肉を六百グラム食べて、奥さんと楽しくくらしていたが、死の数週間前に入院し、昏睡状態に入り、そのまま死んだ。死因は肺癌による呼吸不全。享年八十八歳。最後まで健康的に生き、仕事をつづけ、甘い牛肉を喰らい、さほど苦しむことなく、家族に看取られて死んだ。
 今日はじめて心配になったが、そうした普通に幸福な人生が自分のもとにおとずれる可能性は、もしかしたら低いのではないか。

2 本当に小説家になりたいのか?
 片説家は、簡単にいうと小説家みたいなものだが、本質はひどく違っているので、僕は決して小説家ではない。
 ゆえに、僕が書くものは小説ではない。
 小説は高尚なものだ。正座し、背筋を伸ばし、原稿用紙と格闘し、自分の秘密や思想や汚辱をベースにして、読者をおもしろおかしく、ときにはほろり、ときにははらはらさせつつ、世界と握手する方法や、世界を殴りつける方法を教えるのが、本当の意味での、そして唯一の意味での小説だ。
 でも片説家は違う。
 極端なことを云えば、文章を組み立てられる人間なら誰でも片説家になれる。それに小説家は自由業だし、読者も不特定多数だが、片説家は会社を作ってグループを組み、みんなで考えみんなで書き、読者ではなく依頼人に向けて物語を制作する職業だ。たった一人の読者のために物語を書く創作集団だ。
 僕が片説家になったのは、二十三歳を二ヵ月ほどすぎたころだ。昔から国語が得意だったのと、無職だったのと、家賃の更新がせまっていたのと、職業安定所に募集用紙が貼られていたのを偶然見つけたのが、その理由だった。
 募集要項を読んだ僕は電話をかけて面接をセッティングしてもらい、スーツをクリーニングに出し、二日後、東西線に乗って神楽坂駅で下車した。新潮文庫のマスコットキャラであるYonda?君が描かれた看板の横手に伸びる坂が視界に入る。小説家であればその坂をのぼり、先にある新潮社に行くのだろうが、小説家どころか片説家ですらなかった当時の僕は坂をくだり、目的の会社、『ティエン・トゥ・バット』の前に立った。
 雑居ビルの三階に居をかまえたそこは、想像していたものよりも立派だった。二十畳ほどの無人のオフィスには、四隅に置かれたスチール製の机と、その上に鎮座する時代遅れのデスクトップパソコンがあったが、何より目立ったのは、室内を取り囲む本棚だ。
 僕は本を読む人間なら誰もがするように、本棚につめこまれた書物のタイトルを確認した。
『虹いくたび』『つめたいよるに』『仰臥漫録』『第四間氷期』『ある微笑』『ムーミン谷の仲間たち』『迷路のなかで』『ラベンダー・ドラゴン』『森の死神』『魚雷艇学生』『絵のない絵本』『樽』『鳥の影』『愛の生活』『花のノートルダム』『エドウィン・マルハウス』『みずうみ』『猫のゆりかご』『思い出トランプ』『宮殿泥棒』『野火』『ブラウン神父の童心』『夏への扉』『王妃の離婚』『八月の光』『こころ』『地下室の手記』『かもめのジョナサン』『挟み撃ち』『腕くらべ』『白鯨』『王道』『まだ人間じゃない』『偉大なる王』『クローディアの秘密』『死刑囚最後の日』『しろばんば』『ペスト』『陛下』『女王蜂』『松ヶ枝町サーガ』『むずかしい愛』『核パニックの五日間』『さよならの城』『草の花』『神曲崩壊』『野獣死すべし』『女の勲章』『クージョ』『素顔』『あじさいの歌』『復活』『迷宮の神』『二万時間の男』『イカルス失墜』『異端教祖株式会社』『哀しい予感』『軽井沢夫人』『パットお嬢さん』『アクロイド殺し』『アキレスと亀』『六道遊行』『黄色い部屋の謎』『血の収穫』『金色夜叉』『五分後の世界』『ライオン』『色ざんげ』『高い城の男』『瘋癲老人日記』『ブンとフン』『海と毒薬』『女王の復活』『雨を売る男』『戦争はなかった』『チャンピオンたちの朝食』『神と野獣の日』『天使も踏むを恐れるところ』『武蔵野』『近代能楽集』『不死の人』『抱擁家族』『オートバイ』『これいただくわ』『巨門星』『私はいつも私』『ゴルファーは眠れない』『尋問』『ワインズバーグ・オハイオ』『不思議図書館』『青い月曜日』『さよなら快傑黒頭巾』『あらくれ』『三十九階段』『戦艦武蔵』『石つぶて』『悪夢狩り』『永遠の都』『エーミールと探偵たち』『ひそやかな村』『旅券のない犬』『驚異物語』……ざっと百冊ほど確認してみたが、ものすごくまとまりが悪かった。ジャンルはばらばらで、文庫と単行本が一緒くたにされている。
 それは虐待だ。
 それは犯罪だ。
 僕は『まとまりの悪い本棚を見ると直したくなる病』なのだが、さすがに面接先だし、この量の本を一人で直すのは不可能なので、結び慣れていないネクタイを調節しながら待っていると、本棚の一つが震えはじめた。
 慎重な潜水夫のように本棚が床に沈んでドアが出現し、中から芥子色のスーツを着たオールバックの男が現れた。
「どちらさま?」
 男は低い声で聞いた。

続きは本誌にてお楽しみ下さい。