猫と容子と三匹の蟹
11月10日。
発作が起きた。
どういう発作かというと、あまりにも乱雑な部屋を整
頓しようという発作。床絨毯には本とメモ類と猫毛や猫
髭や猫爪がちらばり放題で、猫の寝転ぶスペースはあっ
ても人の座る余地はない。
本の整頓と掃除にとりかかり、夕暮にはだいぶすっき
りした。
とはいえもともと狭い狭い空間だから、蟹歩きをしな
ければならない。われ泣き濡れて蟹と戯る詩心もなく、
蟹歩きで猫と遊ぶ。
そこへ毛蟹が届いた。次に鱈場蟹が届いた。次にずわ
い蟹が届いた。
わが家で(密輸ものも含めて)蟹を食べた男女は数百
人(まさか)に及ぶが、ありゃ、山本容子さんはまだ。
今日なら人が座れる。
電話すると、「わッ、行くイク!」
午後8時、容子さんがカサブランカと高級ワイン2本
とスダチを1ダース抱えて到着。
並んで出迎えた蟹を見てよがり声を発し、食べてよが
り声を発し、一呼吸あって、「ね、誰かにも食べさせな
くちゃ……そうだ、キョージ君呼ぼうよ……ねえ、これ
から来ない?」と電話する。
午後9時、キョージ君が到着。
「夜の8時といえば、ちょうど夕飯を食べたばかりで腹
一杯ですよ。そんなときに蟹の誘いとはね……」と、キ
ョージ君は学級委員のような台詞で出迎えた猫に挨拶し
ていた。
この二人は実にいい。
小林恭二はつねに頭脳明晰で、まろい声に清澄な精神
が危うく躍動している。その危ういところが、素手でガ
ラスを殴ればガラスは割れるが自分も怪我をするという
文明以前の人知を失念した行為に結実したこともあった
らしいが、いよいよ完成間近い新作長編に言語活動とし
て結実するのは間違いない。
危ういといえば、容子さん、北海道でのカヤック乗り、
ほんと、気をつけてよ!
版画家が独りカヤックで川を下りながら見る水の色の
話には引き込まれた。そうか、ジョイスも川底まで水の
色を見ていたのだと気づかされた。
午前2時過ぎ、『フィネガンズ・ウェイク』のALP
の章の自分の訳文の色を読む。おや、FAXが来た。蟹
の絵と「女王様気分のぜいたくのあとの寂しさ……」の
文面。
「じゃあ、これから行くイク!」と、電話をかけた(ま
さか!)。
11月20日。
「いちもくさんの会」。月一回木曜日に渋谷の高柳道場
に集って将棋を指す。
二年ほど前、ある雑誌の企画で小林恭二の将棋師匠
(厳密には押掛け師匠)になったのがきっかけで、こう
いう集りができた。会員は不定で、会の輪郭も曖昧。数
学者の野崎昭弘、小説家の青野聰、保坂和志、三浦俊彦、
アマ名人の鈴木純一などの各氏が顔を見せることもある。
将棋を指してから玉久でわいわい飲むのが定跡。今夜
は久保明元学生名人、若島正元赤旗名人、野村圭介早大
将棋部部長、編集者のK社S氏、K社A氏など。
久保氏にいわせると、わが将棋は「文明にほど遠い」。
「しかし青野将棋ほど未開じゃないでしょう」
「ああ、あれは野蛮人将棋」と、誰かがいう。
その野蛮人将棋にわが弟子、つまり小林恭二は歯が立
たない。高柳敏夫名誉九段にじきじき指導を受けている
この頭脳明晰男が強くなれないのは、奇跡というしかあ
るまい。
いずれも劣らぬ頭脳おでこが三つ並ぶ。若島、久保、
小林の三氏。なんの話をしているかというと――
「女房が焼肉の用意をしているところへ柳瀬さんから電
話が来たでしょ」
「だからまっすぐこっち(玉久)へ?」
「出かけるっていったら、女房、目の前で生の肉をそっ
くりまるごとゴミ箱に捨てたんですよ」
もろもろの夫婦にもろもろ油煙あり半猫人
新宿へ繰り出すという一同に悪かったが、頭黒の体調
がおもわしくなく玉久前からタクシーを飛ばして帰宅す
る。
11月23日。
「いちもくさんの会」の夜、小林氏は財布を落したとい
う。おかげで頭黒の命は落ちなかった。電話で礼を述べ
たら、「ぼく、いいことをしたのかもしれない」と喜ん
でくれた。
頭黒は81年6月2日、箪笥の中の産室で生れた。実
の母を早く亡くして以来、女房の太腿にしがみついて生
きている牡猫だ。獣医を呼ぶとパニック状態になるので、
女房と24時間交替で看病し、ここ数日たいへんだった。
さすがに疲労し、しかし今日はGIジャパンカップ。午
後、府中競馬場へ。
ゴンドラの「優駿」の部屋へ入るや、古井由吉さんの
にこやかな笑顔に声をかけられた。「ああ、柳瀬さん、
カイタノって、いま読んでわかったよ」と、小冊子の
「レーシングプログラム」をポケットから抜き出す。
「ゆうべ二時間くらい考えたり調べたりしてさ、損しち
ゃった。あはは」
下手な作文が見つかってしまい、頭を掻く。「レーシ
ングプログラム」に書かされた《馬名プロファイル》。
〈カイタノ Caitanoは馬主の造語。語尾をアル
ファベットのOにするのがこの馬主の命名法。接尾辞の
‐oには間投詞を作る用法もある。単騎の逃げが決った
痛「快単」勝の歓声が聞える。〉
カイタノも有力馬だが、なんといってもイギリスから
来たピルサドスキーの前評判が抜群。ピルサドスキーを
軸に数点買って戻ると、その間に部屋ではピルサドスキ
ーの評判ががた落ちになっている。テレビのパドック中
継で馬っ気を出していたというのだ。
競馬を知らない人のために「競馬用語集」(日本中央
競馬会)から引用すると、馬っ気とは――〈牡馬の発情
のこと。性的欲望を起こし性器をぼっ起させ、腹つづみ
をうつような状態になること。若馬にみられることが多
く、また、馬っ気を出すと競走に集中力を欠き、能力を
出し切れない。〉
観念して見ていたら、直線でぐーんと抜け出してきた
その「馬っ気」馬が余裕をもって1着。しかし買い方が
下手で多少のマイナス。
古井さんは、別のを狙っていたらしい。語彙の豊かな
小説家が、ただ「強い……強い……」とつぶやく。レー
スが終って、ぐんと観客が減った場内のターフビジョン
にリプレーが映し出される。そのターフビジョンに大き
な拍手を送って、また「うーん、強い……強いねえ……」
馬っ気を出しても圧倒的な強さ。「バルザックみたい
な馬ですね」と、いおうとしたが、つまらない台詞にも
思えて「はあ、ほんとに……」と答えた。
紅葉をバックに夕日に照らされた古井さんの満足げな
顔がよかった。
12月3日。
電車に乗ったとたん、中原誠永世十段にばったり出会
う。こういう偶然の出会いは「人生の最大な驚嘆のよろ
こびだ」(西脇順三郎)。
「でも灰皿の話をして別れた」と、西脇詩は続くが、永
世十段とはそうならない。あれこれ楽しい話をしながら
新橋・第一ホテルへ。
羽生善治四冠王(永世王座)の王座就位式。羽生さん
は会うたびに風格が増している。
昨年、今年と連続で島朗八段が挑戦した。それを四冠
王は、いずれも3|0で退けてしまった。島八段は高柳
門下で、永世十段の弟弟子に当る。乾杯の音頭をとった
永世十段は「いじめていただきまして、どうもありがと
うございました」と挨拶し、会場になごやかな笑いが流
れる。
久しぶりで米長邦雄九段に会う。
「ちょいと体調を崩しまして……」といったら、体力も
脳も強い九段は「ほう、頭の方ですか?」
「いや、頭の方は大丈夫なようです」(もっとも狂った
ような仕事はしている。)
先月、日比谷・松本楼での四冠王王位就位式では、吉
増剛造氏が来賓挨拶を述べた。このときの挨拶がすばら
しかった。鳥肌が立つくらいにすばらしかった。挨拶が
そのまま詩だった。
その吉増さんも来ている。「ぼく、羽生さんの追っか
けになっちゃって」
帰宅してから吉増・羽生対談『盤上の海、詩の宇宙』
(河出書房新社)を開く。本当にいい本だ。よし、自分
もいい仕事をしなくちゃ、と、また狂ったような仕事に
向う。
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