本・雑誌・ウェブ

早春の東西
三月二日 二日程前から書いていた、「イタリアの美意
識」十枚をおわって渋谷、青山学院西門前にある「ラ・
ブランシュ」で『サントリークォータリー』の太田さん
に渡す。イタリアの都市国家の美意識が、権力を握った
領主の政治力に一層のかがやきを与えるため、芸術家た
ちを招いて都市を美しくする。しかも数多い都市間の政
治のせめぎ合いが、かえって互いの美意識を洗練させた、
という主旨のものである。冒頭でミラノのヴィスコンテ
ィ家の華麗な時祷書と、この子孫であるルキノ・ヴィス
コンティの映画芸術が示す美意識についてふれた。
 ところで私は甲南女子大の博士課程設置にさいして招
かれ、青山学院から移って以来、この界隈に来たことは
なかった。それだけにまわりの風景が一変していること
に驚いた。しかし西門の近くに来るとどこからとなく昔
の沈丁花の匂いが漂ってくる。ちょうど入試の頃であっ
たと懐しく思い出した。
「ラ・ブランシュ」で私は鴨の料理を選んだ。長い間、
食わず嫌いであった鴨だが、去年、トゥルーズのとある
レストランで口にした鴨の味わいにひかれて食べるよう
になったのである。
 食事がおわったあと、太田さんに教えられて青山骨董
通りにある小原流会館へゆく。ここの雑誌『插花』に私
は花についての連載原稿を書いていて、今日は担当の野
崎さんにそれにつかう写真を渡すことになっていたので
あった。
 かえり渋谷まで歩く。中村書店の前をとおる。昔から
ここで評論や詩関係の古書をよく買ったものであった。
 青山学院にいたころ、私は横浜に戻る途中、多摩川園
でおりて、川沿いの丘の公園をしばしば歩いたことがあ
った。そのことを思い出し、又途中下車して公園への細
い階段を上ってゆく。雑木林の枝がふくらみ、早春の仄
青い空がその上に拡がっている。白梅も水仙も咲いてい
た。
三月五日 おくれ気味になっていた『岳』へのエッセイ
を書く。主宰の宮坂靜生さんに頼まれたもので、俳人で
ある氏は『石と光の思想』以来、拙著に関心をもたれ、
『岳』にフランスについてどのようなテーマでもよいか
ら書いてほしい、とのことであった。考えた末にパリで
私がいつも好んでいた散歩道のことを書いた。プルース
トにならって私は「セーヌの川の方へ」と「サント・ジ
ュヌヴィエーヴの丘の方へ」という二つのコースのいず
れかをよく歩いたからである。前者はサン・ルイ島から
マレー地区に向う道であり、後者はカルディナル・ル・
モワンヌ通りを上り、クロヴィス通りからサン・ジャッ
ク通りを横切ってリュクサンブール公園に至る道であっ
た。
三月六日 昨夜の夕方から雪。この冬で六回目である。
春にしては凍るように寒いが、一ケ月ほど前、長浜城の
歴史民俗資料館へしらべものに行った時にくらべれば大
したことはない。あの町は伊吹山の下にあり、シベリヤ
の寒気団が吹きおろしてくる。まるで冷凍庫のなかを歩
いているようなものであった。町中を横切る北国街道を
歩きながら、明治最古の旧駅舎のかたわらによって、湖
のむこうの故郷を眺めた。昔、中学の頃、結核で寝てい
た時、枕元の洗面器の水が凍っていたことを思い出す。
 帰途米原で吹雪の中、北陸線の長い陸橋を見ると、か
つて水上勉氏との対談で北へ向うホームでともに激しい
雪まみれになった経験について話し合ったことを回想し
た。
三月七日 来週は「朝日カルチャー」で三つの異ったテ
ーマで話をするため、その準備をする。九日は「文学と
民俗について」。柳田国男と『遠野物語』、花巻の宮沢
賢治と高村光太郎、それに石川啄木における民俗的な根
ざしの問題である。何度か歩いた盛岡と花巻の風景を思
い出しながらメモをとる。
 十三日は、プラハについての連続講演の中で私がしゃ
べることになっていた「リルケに見る西欧の影響」であ
った。ところで彼が『マルテの手記』の冒頭から、死と
病気と生きる悲惨について話をはじめているわけは、彼
がパリで住んでいた六区から五区にかけては病院が多す
ぎたため「ここでは何もかも死んでゆく」と書きつけず
にはいられなかったからだろう。この界隈は私がいくつ
も住んだアパルトマンのある区域と重なるから、リルケ
の心情もよくわかるような気がする。
 そう言えば、私がはじめて彼のミュゾットの館とラロ
ンの村の墓をたずねたのも二月の雪の多い日だった。
 十四日のテーマは、リルケも入る「ベル・エポック」
の連続講演でアポリネールとピカソを軸とする一九一○
年代の芸術運動についてである。サン・ジェルマン・デ・
プレ教会の境内にピカソの手になる童顔のアポリネール
の胸像があったことを思い出す。
三月八日 頼まれながら中断していた『徳田秋声全集』
(八木書店)の月報を書きはじめる。彼のリアリズムが
「自己批判」を内部にふくみながら「見る」ことに徹し
たところにあり、そこに彼の思想もあったのだと納得す
る。おわってから深夜、カザルスの弾いた一九二八年版
のワーグナーの「夕星のうた」のCDを聴く。心にしみ
入るようだ。
三月十日 新幹線で京都へゆく。数年先の大きな仕事に
かかわる調べもののためである。この東海道の沿線は関
ケ原をすぎると、私の幼年、少年時代をすごした彦根や
大津、それに父がつとめていた近江八幡があって思い出
すことが多い。私は彦根で小学校に入った。帽子をあみ
だにかぶって城内に立っている新入生の私の写真がある。
左手に多賀大社の森が見える。そこの久徳の在に叔母が
住んでいてよくあそびに行ったものだ。
 いつか亡き芝木好子さんが滋賀の旧家を見たいとおっ
しゃるので叔母の家へ御案内したことがあった。宏大な
屋敷で部屋数が二十五もあって、芝木さんは「迷ってな
かなか戻れなかったわ」と言われながら座敷に帰ってこ
られた。風雅な茶室も三つある。ここは昔、彦根藩の御
典医の家系であった。主人は漢詩集も残している。
三月十一日 京都の寓居を出て散歩に出る。今日は加茂
大橋から上って久しぶりに糺の森へ行った。ここは上流
からの賀茂川と高野川の合流地点で、その狭い三角形の
地に森がひろがっているのである。大橋の中頃に佇んで
北を眺める。右側の高野川の方がやや狭くて、野生味が
ある。上流に鞍馬、比叡の山影がよこたわっていて雪雲
がかかっている。昔、法然院近くの石橋町に住んでいた
吉井勇が、
厳しきは寒さか迫る切なさかもの思ひ居れば骨もこほり

比叡も雪愛宕も雪と夕戸出に京の山山われは見廻はす
 と詠んだ洛北に住んだ晩年の彼の眼差がこの加茂大橋
からの風景をとらえていたと想像する。
 橋の下を眺めると藻がゆらぎ、冷たい水の面を水鳥が
首を底につっこみながら餌をあさっている。この大橋に
は夕方になると角燈のような明りがともる。何故か優し
い気持になる。北へ上って下鴨神社へゆく、工事のため
か、鴨長明が愛したという御手洗川の水が涸れている。
広々と人気ない森だ。同行のNと河合神社が左手にある
のを見て、説明板に鴨長明がここで禰宜をしていたとあ
るのをいぶかしく思う。たしかに長明の父は賀茂御祖神
社の正禰宜惣官であったが、次男の長明は安元元年(一
一七五年)の八月に、この神社の禰宜職銓衡に洩れ、さ
らに後鳥羽院が河合社(現河合神社)の禰宜に欠員が生
じたので長明を推挙したにもかかわらず、賀茂御祖神社
の惣官祐兼から横槍が入って長明は選に洩れた。そのた
めさらに後鳥羽院は祐兼の言を入れ、「うら社」という
社を河合神社と同格にしてその禰宜に長明を任じようと
した。
 しかし長明はこれを拒否して失踪する。この行いにつ
いて源家長は「こはごはしき心」(強情な心)とのべて
これを難じたという。まさに奇矯の振舞いである。偏屈
な男である。けれども私はこの森を愛し、水に惹かれ、
周知のように、
ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
 と書いた彼の感受性を多とするものだ。糺の森を出て
出町の商店街を歩く。古い通りで、私の好きな漬物屋の
「野呂」もある。魚屋は新鮮であって安い。入口の河原
町通りにあるもち屋の「出町ふたば」にはいつも行列が
できている。そのあと反対側でよく寄る古本屋の「善書
堂」がある。国文学の古典や思想、歴史によい出物があ
るから私の気に入っている店だ。