双子の家
三月九日 月曜日。
夕方五時半。散歩から帰ってくる。
空気はさほど暑くないのにカリフォルニアの太陽の光
は強く、散歩に出るのは日がかげってからである。食料
品の買い出しの必要があるときは大通りの方に出るが、
その必要がない時は裏へ回る。今日は裏の方へ回った。
ひと気のない小道である。車の通る道路からわずかに
木立で遮断されているだけなのだが、小さな小川に沿っ
てうねうねと続き、おまけに橋までかかったりしている
のがいい。もっとも突き当たりまで行って同じ道をもと
に戻るだけで、どこか犬の散歩のようでもある。それで
も行きと帰りとでは別の景色が目に入るので、自分では
満足している。そうしてさも運動した気になって家に戻
ってくるのである。
私の借りている家は愛嬌がある。クリーム色の壁に赤
い瓦屋根をのせたところなどは立派な一軒家なのだが、
アメリカでは見たことがないほど小さい。小さいのを通
り越して、おもちゃのようである。しかもそのおもちゃ
のような家が二軒、そっくりなのが並んでいるのである。
お隣りには、私をここに招いてくれた、ジムという若い
日本文学の先生が住んでいる。散歩から帰ってきて、こ
の二軒の家が双子のように並んでいるのを見るたびにな
んだかおかしくなる。
日常生活は少し原始的である。
家具つきということで借りたのだが、ドイツ人の大家
さんが環境保護主義者である上にひどくお金がないので
家の中には何もない。去年は不便を承知でのシエナ暮ら
しだったが、今年はアメリカ、しかもシリコン・ヴァリ
ーに行くのだから、ピピピッと何から何までリモコンで
操作できるような家に入れるのを期待していたら、大変
な思惑ちがいであった。まずは家中の蝋燭のように暗い
電球をふつうの明るさの電球に変えることから始まった。
もちろん掃除機も洗濯機もない。一番頭を悩ませたのは
絨毯の掃除である。木の床だけなら備えつけのモップと
雑巾で間に合うが、客間に薄い灰色地の絨毯がしいてあ
り、それをどう掃除するかが分からない。
私が考えたのは荷造り用のテープである。あれを十五
センチぐらいにちぎり、粘着面を外に向け、ぐるりと包
帯のように指に巻いて、絨毯の上をはたはたとはたいて
ゴミをとるのである。粘着力がなくなるとテープを新し
いのに変える。どうせまた汚れるのに馬鹿らしいことを
していると思いながら、しゃがみこんで熱心にやる。
「女はどんな時でも見よい方がいいんだ」との露伴の言
葉が浮かぶのは、ついこの間ここの学生と一緒に幸田文
の『あとみよそわか』を読んだからである。どう見ても
「見よくない」な、と自分の姿を思いながら、しゃがん
だまま熱心にやり続ける。そして大家さんはどうやって
掃除していたのだろうと不思議に思うのである。
六時少し前にお隣りのジムが大学から歩いて帰ってき
た。玄関の扉の音がするので分かる。しばらくして車を
ふかす音がするのは、日本の主婦のように毎日夕食のお
買物に出るからである。暇人の私はお隣りの物音にいつ
のまにか耳を立てている。カーテンをあけてそっとのぞ
くこともある。
三月十日 火曜日。
夜、星は東京よりよほど近い。
夕食のあと懐中電灯を使って裏庭のコンポストに生ゴ
ミを捨てに行った。ゴミの分け方は東京でもまめな方だ
と思うが、ここでは環境派の大家さんに気を使い、さら
に細かく分けて出している。わけの分からないのは新聞
紙以外の紙の始末である。東京から着いたその場で一気
に大家さんから、ゴミの分け方、ゴミの大きさ、ゴミを
出せる曜日などにかんして複雑な説明を受け、紙の分類
まではちゃんと頭に入らなかったのである。仕方がない
ので、段ボール、ちらし、雑誌、書き損じの紙など、こ
のせまい家に別々にとってある。
生ゴミを出しながらお隣りにちらりと目をやると、食
堂の窓に黄色い灯りがついている。ジムは一人で暮らし
ながら僧院に暮らすお坊さんのようにまことに規則正し
い清らかな生活を送っている。朝から大学に行き、日中
は図書館で勉強している。寝るのも早く、もちろん起き
るのも早い。
いつかあんな風に暮らせたらというのが私の夢である。
私たちは二人とも朝刊をとっている。最初、配達のし
かたが日によってまちまちなのが不思議であった。ドラ
イヴウェイに乱暴に投げられているだけのこともあれば、
玄関の扉の前に丁寧に置かれていることもある。どうし
てこんなに日によってまちまちなのだろうと思っていた
ら、ある日謎が解けた。ジムが先に起きた時は私の分も
拾って玄関に置いておいてくれたのである。それなのに
私は自分が先に起きても自分の分だけ拾って平気な顔を
していたのである。
三月十一日 水曜日。
珍しく社会生活に富んだ一日を送った。昼食を大学院
生の一人と共にし、夜はお隣りのジムと「デート」をし
た。二人で映画を観に行ったのである。
暗い映画館の中で、大きなシートにうまり、ジムと仲
よく並んでポップコーンを食べながら画面を観るうちに、
私は、いわゆるティーネージャーだったころを思い出し
た。
中学生でアメリカにきた私にとって、日本語の世界に
生きている時のみがほんとうに生きている時であった。
それでもごくたまに、アメリカ人の男の子に誘われてデ
ートというものをしたことがある。じきにベトナムに行
ってしまった男の子もいた。情けないことに楽しかった
記憶はない。なぜ自分がこんなところでこんなことをし
ているのだろうと、果ては相手を恨むような心情になっ
た記憶ばかりである。
それが今夜などはひどく楽しい。夕食の時はお酒が入
ってなおさらである。うきうき、という表現がふさわし
い楽しさである。日本に帰り、アメリカに同化しなくて
はならないという圧力から今や解放されたせいだろうか。
いずれにせよ、あのころこんなことをこんな風に楽しめ
たらまったく別の人生を歩んでいたにちがいないとつら
つらと思った。
ジムは若く見られるのを厭って、少しあごひげをのば
している。
三月十二日 木曜日。
夕方散歩の代わりに大学のオフィスに行った。キャン
パスの中心のクワッドと呼ばれているところにあり、私
の足だと二十五分くらいかかる。家を出て角を二つほど
曲がり、あとは一本道をひたすら行くうちに学生の姿が
増えてくる。
私の育ったアメリカというのは東海岸である。それも
一昔前の東海岸である。東洋人は少なく、彼らのほとん
どは異国人であった。こういうのを隔世の感というのだ
ろうか。今、ここスタンフォードのキャンパスを歩くと、
あまりにちがうアメリカに出会うのに目をみはる。なに
しろどこを向いても東洋人だらけなのである。ふと気が
つくと、見渡すかぎりが東洋人だということすらよくあ
る。しかも彼らはアメリカ人なのである。英語が母国語
の人たちなのである。
私の教えている日本文学のセミナーにもそういう学生
たちがいる。外から見れば日本人だが、母国語がどちら
かと言えば英語だという人たちである。みんな女である。
このキャンパスの中で、彼女たちは、日本語が読めると
いうことにおいて特殊なのであって、英語が母国語だと
いうことにおいて特殊なのではない。彼女たちを見てい
ると、もう日本には舞い戻ってはくれないだろうという
気がする。彼女たちは日本で見る英語の達者な女の子た
ちとは何かが決定的にちがう。日本というものの牽引力
がすでに働かないところで生きているのである。悲しく
もあれば言祝ぎたくもある。
帰りに図書館に立ち寄った。ひんやりとした廊下に靴
音を響かせながら日本語の本の表紙を見ながら歩くと、
昔、日本文学が素直に好きだったころの感覚がよみがえ
ってくる。すでに日本では味わえなくなってしまった感
覚である。ここで読む日本文学は日本で読む日本文学と
同じではない。
日本語を読めてよかったわね――私は学生たちにしつ
こく繰り返す。優しくうなずく彼らがほんとうにそう思
ってくれているかどうかは分からない。頭脳明晰で博識
で勤勉な学生たちで、私には教えることなどないから同
じことを繰り返すほかないのである。
明日は「最後の授業」である。
|