薩摩焼四百年紀行
司馬遼太郎「故郷忘じがたく候」は、私の好きな作品
だ。それによると苗代川の薩摩焼、沈寿官家は、韓国で
いう壬辰・丁酉倭乱、日本でいう豊臣秀吉の高麗陣の時、
全羅北道南原城で島津義弘の軍勢にとらえられたとされ
る。それから今年はちょうど四百年にあたる。
八月十八日(火)
ソウル駅で第十四代沈寿官先生と待ち合わせる。長身
の先生はいつも変わらぬ笑顔で、飄然と現われた。RK
B毎日放送の木村栄文ディレクターがドキュメンタリー
を製作するため、私も沈先生と同行する御縁が与えられ
たのである。ソウルで展覧会「沈家四百年展」をしてき
た沈先生と私はさっそく二人でセマウル号の車内食堂に
いき、カルビタン定食を食べる。スープは大きな丼には
いっているのだが、列車が揺れるのでこぼれそうになる。
沈先生いわく。
「展覧会で私の国籍はどこかと質問がありましてな。通
訳の話を聞いていると、横から声が割り込んできて、こ
の方は心に故郷を持っておるんだからそれ以上のことは
ないじゃないかとたしなめたんです。韓国と薩摩、何が
一番違うかというと、土が違います。一に土、二に窯、
三に技術といいましてな。薩摩の土は白く見えても鉄分
が多いので、そのまま焼くと黒くなってしまう。それを
特別の技術を開発して、白い焼物をつくりました。韓国
の土は磁器の土で、薩摩はそれがない。陶器でありなが
ら白く見えるように工夫したんです。韓国にはない焼物
でしょうな。串木野で私どもの祖先の築いた最初の窯が
発掘された。水瓶の破片がでてきたんですが、均質に薄
くつくってあって、固く焼き締めてある。気迫が感じら
れる。故郷から持ってきた技術がこの国では通じないと
わかって、一度は絶望したでしょう。でも壺をつくって
買ってもらわなければならない。薄くつくって、使いや
すいよう軽くしなければならない。陶片からは必死の思
いが伝わってきます。現代の名工といわれる人たちでも、
韓国と日本とを問わず、あの水瓶はできないでしょう」
あたり一面濃い緑の水田である。緑の海のような水田
を越える街が出現する。幾つもの街を通り過ぎて、セマ
ウル号は南下していく。
全羅北道の山間の盆地、南原に着く。人口十一万の地
方の中都市だ。駅前には「春香伝」の春香と夢竜の看板
が掲げてある。ここはパンソリの発生地だ。唱者と鼓手
によって語られ演奏されるパンソリは、日本の浪曲のよ
うな語り物で、時に抒情的で時に激情が波になってうね
る。
南原市差し向けの車に、私は沈先生に誘われて乗った。
万人義塚で降りると、すさまじい数のカメラマンに囲ま
れた。市長が待っていて、沈先生に従って私も行列には
いっていく。沈先生はマスコミの人たちに揉みくしゃに
されていた。忠烈祠の裏の石段を登ったところに、花崗
岩の枠に囲まれた芝の万頭塚がある。市長を先頭にし、
沈先生につづいて私も雑草を抜きながら塚を一周する。
夏の日差しが照りつけ、暑かった。
万人義塚は一五九七年の慶長の役で倭軍と戦って死ん
だ将兵の墓である。韓軍と明軍が守備していた南原城を、
八月十三日に宇喜多秀家を総大将とする倭軍五万六千が
包囲した。十四日と十五日に激戦があり、十六日に南原
城は陥落した。小西行長が先鋒で、島津義弘はこれにつ
づいた。沈氏以下七十人ほどの陶磁の工人が、島津軍に
とらえられた。
南原城跡の石垣はわずかに残っているばかりである。
田んぼの中に崩れているのを、直したのだ。堀は敵味方
の屍で埋まったという。わずかに生き残った血の命脈が
四百年間保たれ、工人としての技術を失わないばかりか
むしろ多様に発展させ、こうして遠い祖先の地に帰って
きた一人の男がいるのは奇蹟なのではないだろうか。
夜、市長招宴があり、私もお相伴にあずかる。韓式の
目もくらむほどの御馳走の数々がならんだ。バックグラ
ウンド・ミュージックはパンソリである。沈先生はいつ
もこぼれんばかりの笑みをたたえておられる。四百年の
星霜があり、沈寿官先生は日本名を持った何処から見て
も剛毅な薩摩士族である。それらすべてを知った上での、
韓国の人の歓待なのだ。
宴が果て、南原国民ホテルに投宿す。蓼川に面した街
はずれの静かなホテルである。落着いてから、私は一人
でぬけだして近所にビールを飲みにいく。
九月二日(水)
再びのソウルである。金浦空港で第十四代沈寿官先生
の長男大迫一輝さんと待ち合わせ、高速道路を一時間走
って利川にいく。利川は世界に知られた陶芸の町で、二
百六十の窯元がある。海剛陶磁美術館は高麗青磁を復活
した海剛柳根瀅翁のコレクションを展示してある。海剛
翁の長男、館長で陶芸家の柳光烈さんは、沈家と入魂の
間柄である。
「昔の人の仕事を見ると、名前も残してないし、神様の
手がつくったとしか思えないものがあります。汚れもま
ったくなくて、完璧な美しさをたたえています」
柳光烈さんが示してくれたこの美術館の逸品は、十二
世紀の青磁陽刻蓮弁文楪匙である。背面に蓮弁の浮き彫
りのある口径十六・四センチの皿で、ゆったりとした曲
線が量感を豊かにしている。淡緑青色釉には微細な気泡
がはいっていて、高麗青磁の究極の理想である翡色とは
この色かと思わせる。造型も完成された名品だ。
夜、一輝さんがきたからと、柳光烈さんの弟の承烈さ
んをはじめ仲間の陶芸家が宴席を持ち、またもや私はお
相伴にあずかった。五味子といい、糯米で醸造して枸杞
をいれた酒をしたたかに飲む。仲間たちと語る合間に、
一輝さんは私に話してくれる。
――イタリアのファイエンツァに二年間留学して、ソ
ウルの大学院にはいろうとしました。書類を送ったら、
沈ではなく大迫一輝という名前を見た教授から、韓国の
魂を忘れたので鍛え直すといってきたんです。それでい
くのが嫌になって、キムチ瓶つくりの金沙土器にはいっ
たんです。足蹴りろくろの昔ながらの工場で、朝の二時
から夕方六時まで仕事です。仕事が終ると近くの漢河で
身体を洗ってきます。食事は六時半からで、キムチと海
苔とあと一品ぐらいついて、あとは味噌汁と御飯です。
七人で食べるから、食事の時間に五分でも遅くれると食
べるものはありません。
ここで黄河龍先生に会ったんです。道具だけを持って
あっちこっち歩く渡り職人で、大きな瓶を叩きの手法で
つくるすばらしい技術を持っていました。あんな大きな
ものを、粘土をのばして均質につくるんですから。キム
チ瓶は土管のたぐいで安くて、給料もらっても生きてい
くだけで精一杯です。黄先生は日本語を少し話して、間
違ったことをすると本気で怒ってくれました。
一年間の修業を終えて帰る時、黄先生が日本にいけな
いかというから、ぼくは呼ぶと約束したんです。ところ
が手続きをしようとすると、住所を転々としてきたので、
パスポートがもらえないんです。やっとパスポートとビ
ザとって利川にいったら、承烈の兄貴があの人は数日前
に死んだというんです。癌にかかって苦しんで、ダムの
貯水池に跳び込んだんです。日本人が約束守るかと、ま
わりの人にいわれてたらしいんですよ。金沙土器の社長
にはこういわれました。腹には風をいれるな。食い物い
れろ。
九月三日(木)
京畿道驪州郡金沙面梨浦の金沙土器は、小さな丘の斜
面に登り窯が築かれ、まわりに陶片が散らばっている。
登り窯でも内部に仕切りのないものを鉄砲窯といい、金
沙土器はこの型である。背後は山で、向かいは田んぼだ。
キムチや味噌の大瓶が正面にならべられている。トタン
屋根の作業場にはいっていくと、社長の金一萬さんと、
長男と、長男の嫁が黙ってろくろに向かっていた。一輝
さんの姿を見るとみんなは一瞬顔をゆるめ、笑顔のまま
作業をつづけるのだった。つくりかけた瓶は、最後まで
つくってしまわなければならない。
ひとつつくり終った一萬さんがどいて、一輝さんはそ
のろくろに坐った。筒状にした粘土をひと巻き分重ねて
ろくろで成型し、それをくり返すうち、大瓶ができてく
る。内側に木製の台を当て、外側から木槌で叩いて粘土
をのばすのを、叩きの技法という。大きいものだからバ
ランスが大切で、どんな心の乱れも許されないだろう。
粘土と指がこすれる音、ろくろを蹴る音、木槌で叩く音
がするばかりである。四百年前もこうだったのだ。
「前よりうまくなったよ」
ろくろから上がった長男がぽつりという。
|