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師走の小旅行
 亡父は、製綿工場と綿糸紡績工場を兼営していた商人
だったが、一年中で最も忙しかったのは十二月に入って
から大晦日までだった。
 私の少年時代、工場での製品の売上代金の回収は主と
して年末で、外交員と称された事務員が自転車で集金に
走りまわる。その動きは大晦日が近づくにつれて激しさ
を増し、元日の夜明け前にようやく終了した。
 家の中だけではなく、町の中も空気が揺れ動くように
ざわつき、掛け取り(掛け売り代金の回収)の商人たち
が血走った眼をして往き来し、まさに師走という言葉通
りのあわただしさだった。寄席では落語家が、「こんな
忙しい年末に寄席になどくるのは、借金取りに追われて
いる人ばかり」などと言って笑わせていた。
 戦前の年末は、そんな状態だったが、今でも十二月も
中旬をすぎると東京の町々、ことに下町は人の動きがは
やまる。私はそのような雰囲気が好きで、その時期にな
ると下町を訪れる。
 生れ育った故郷とも言うべき日暮里の町へは年に数回
行くが、十二月十八日にも足をむけた。
 山手線の日暮里駅で下車し、武将姿の馬にまたがった
太田道灌の銅像のある駅前広場を越えて広い車道を横切
り、両側に商店がまばらにある道を進む。車も人の姿も
ない、不思議なほどひっそりした道で、右への露地を入
ると小ぢんまりとした日暮里図書館がある。
 その前が生家のあった地で、そこに建つマンションに
次兄一家が住んでいる。
 数年前、次兄から電話があり、マンションの窓から図
書館を見下すと、その一室に私の著書を並べたコーナー
が設けられているのが見える由で、
「一度、お礼の御挨拶に行くべきだ」
 と、言った。
 それで恐るおそる訪れてみると、たしかに五畳ほどの
広さの部屋に私の著書が並べられている。照れ臭くはあ
ったが、館長に会ってお礼を述べ、その折の話し合いで
生原稿その他を贈り、それも展示されている。
 近くに母校の第四日暮里小学校があるが、今ではひぐ
らし小学校と名を改めている。
 駅の近くにもどり、ラングウッドというホテルの喫茶
室に入り、サンドウィッチで昼食をとった。
 終戦の三年前、父が駅の近くに家を新築し、私は生家
からその家に移った。
 日暮里の町は、終戦の年の四月十三日夜の空襲で焼き
払われ、むろん私の住んでいた家も灰になった。その家
のあった位置をあれこれ調べた結果、そのホテルの建っ
ている地の一隅がそれであるのを知った。
 しかも、喫茶室のある場所で、ちょうど私が椅子に座
っているあたりなのである。私は、焼失した家の敷地で、
サンドウィッチを口にし、コーヒーを飲んでいることに
奇妙な感じがした。
 ホテルを出て、根岸に通じる道を進むと、右手に名物
の羽二重団子を売っている店があり、私は入って団子を
買った。
 店主の弟の澤野孝二さんは、私が学生時代からの知り
合いである。当時、澤野さんは早稲田大学の学生で、町
の青年文化会の催しでオニールの芝居を上演し、私は影
絵劇を同じ舞台にのせた。オニールの芝居の演出者は、
後に著名な音楽家になった日暮里在住のいずみたくさん
であった。
 大東亜戦争がはじまった翌年の四月十八日正午すぎに、
東京初空襲のアメリカ爆撃機が町の上空に飛来し、私は
生家の物干し台で凧揚げをしながらそれを近々と見た。
機は超低空で進んできて、私は風防の中にいるオレンジ
色のマフラーを首に巻いた飛行士二人の姿を眼にした。
 私より二歳下の澤野さんも機を目撃した由で、かれは
その後の調査で日暮里上空を通過した爆撃機が、隊長ド
ウリットル中佐の搭乗機であるのを確認した。私が眼に
したマフラーを首に巻いた飛行士は、操縦士かそれとも
機銃手か。
 店の前に善性寺という寺があり、門を入ると、すぐ左
手に墓が見える。それは不世出の横綱双葉山の墓で、碑
面に姓の龝吉という文字が刻まれている。場所前になる
と若い力士が、墓の前で四股をふんでいる姿を見かける
こともあるときく。
 日暮里はハギレを扱う店が多くあることで有名になっ
ている。戦前には少しはなれた所にハギレ屋が密集して
いたが、それが駅近くに進出し、品数が豊富なので女性
の人気の的となっているらしい。
 それらがホテルの近くの道に面して並んでいるのを知
っていたので、私はそこに行ってみた。たしかに女性客
がどの店にも群れ、布の寸法をはかっている店の人たち
も生き生きしている。その活気に、私は師走を感じた。
 駅の近くにもどり、千葉屋という戦前からあった鰻屋
の前の石段を登って、おびただしい線路の上に架けられ
ている橋の上を歩いた。終戦の年の四月十三日夜、飛来
したB29型爆撃機が大量の焼夷弾を町にばらまき、火の
手が至る所からあがり、私は町の人々とその跨線橋を渡
って広大な谷中墓地に避難した。
 その夜のことは、鮮明な記憶として残っている。
 墓地の中央に上野公園方向にむかう広い鋪装路が一直
線に伸び、両側が桜並木になっていて、現在もそれに変
りはない。町の人たちは、墓地の桜が三分咲きだ、七分
咲きだと噂するのを習いとしていたが、その年の初めか
ら空襲が激化していたのでそれを口にする者などいなか
った。
 炎に追われて墓地に足をふみ入れた私は、桜が満開で
あるのを知った。空は、町を焼く炎の反映できらびやか
な朱の色一色で、墓石も道も人もすべて赤い。
 私は、美しいものを眼にして立ちつくした。桜の花が
夜空の色を受けて桃色に染り、それは妖しい美しさであ
った。
 夜が明け、私は、跨線橋を引返してその先端まで行っ
てみた。大規模な津波が轟音を立てて押し寄せるように、
町をおおう炎が逆巻き天高くあがっている。壮大な炎の
乱舞であった。
 その情景をしばらく眺めていた私は、墓地の方へ引返
したが、橋の下方でなにか音がするのに気づいた。見下
してみると、電車が無人のホームをはなれ、鶯谷駅方向
に動いている。それは始発の電車にちがいなく、町々が
炎に包まれているのに電車はホームに入り、発車してい
る。
 私は、不思議なものを見るように遠ざかる電車の車輛
の列を見つめていた。

 駅前にもどった私は、タクシーに乗って浅草雷門に行
った。浅草には、浅草寺への初詣でをふくめて年に数回
足をむけるが、年末の浅草が最も好きである。一年も終
ろうとしている気配が濃く感じられるからだ。
 仲店は、いつもの年末より人出が多い。外人の姿も目
立ち、そのうちに通行人の女性が店の人に、
「羽子板市はどこでやっているんでしょう」
 と、たずねているのを耳にして、人出が羽子板市のた
めでもあることに気づいた。
 都合のいい日に来た、と思って歩いてゆくと、仲店が
切れたあたりに、羽子板を並べている仮店がいくつか並
んでいた。戦前は、正月になると女の子は羽つきに興じ、
それに少年たちもまじったが、店にかかげられている羽
子板は、すでに羽つき遊びのものではなく、飾り物にな
っている。
 羽子板には歌舞伎役者の似顔が飾りになっているが、
例年、その年の話題になった人物の似顔も出ている。或
る店には中央に映画の寅さんとタイタニックの女性の顔
が並んでいた。シャンシャンシャンと店の者が客と手を
打ち、羽子板が売られている。
 浅草寺の本堂の前に行き、お賽銭を投げた。手を合わ
せ、家内安全とだけ胸の中でつぶやいた。
 露店の並ぶ道を歩き、木馬館の前に立った。
 安来節がかかっていた頃は、よく入り、家内を一度連
れて行ったこともある。小結、関脇、大関などと唄う女
性に位づけがしてあって、たしかに上位の女性は唄に迫
力があり、魅力満点だった。ただ、家内がしばしば声を
あげて笑い、その度にまばらな客席の客が眼をむけてく
るのが恥しかった。
 木馬館では、地方廻りの芝居の一座がかかっていて、
私はその場をはなれた。
 花屋敷の前を通り、六区を歩いた。川田義雄(後の晴
久)のあきれたぼういずや柳家三亀松が出演していた花
月劇場は、映画館になったりしていて、戦前の面影はな
い。それでも歩いていると、両側にぎっしりと並んでい
た映画館や軽演劇の常設館などが胸によみがえる。
 雷門前の通りに出ると、赤い二階建のバスがとまって
いた。一度も乗ったことがないので、二百五十円を払っ
て二階席に坐る。
 バスは田原町、稲荷町をすぎ、私は終点上野広小路で
下車した。時計の針は四時をすぎていた。
 満足すべき小旅行で、年末の気分を十分に味わった。
地下鉄に乗って神田に行き、電車で帰途についた。