原稿0枚
六月四日(金)
エステに行く。これ以上寂れようがないというほどに
寂れた商店街の、入口にある美容院。何度か前を通った
ことはあるが、入るのは初めてだった。思いのほか奥が
深く、電気代を節約するためか、蛍光灯が切れかけてい
るからか、部屋の四隅は薄ぼんやり陰になってよく見え
ない。
狭く急な階段を上った二階が美容院になっているらし
く、ドライヤーの音が聞こえていたが、エステ用の一階
には受付の女性以外、人の姿はなかった。私はカーテン
の向こう側のベッドへ寝かされる。歯医者か産婦人科に
あるような形のベッドだった。
天井の角にしつらえられたスピーカーからは、リチャ
ード・クレーダーマンやフリオ・イグレシアスが流れて
いた。なぜかスピーカーが逆さまになっていた。しかし、
音質に問題はなさそうだった。
エステの内容は、クレンジング、マッサージ、パック、
とごくありふれたものだったが、マッサージの器具だけ
は多少変わっていた。紡錘形の持ち手に、万年筆のペン
先のような金属片が取り付けてあり、それを顔に押し当
てるのだ。すると電流かレーザーか超音波か、とにかく
何かが流れて皮膚がピリピリするのである。
そのマッサージ器具がどんな効果をもたらすのか、施
術者は説明してくれなかった。私はそれと似た形のもの
を、どこかで見た気がしてならなかった。しばらく考え
てようやく、ああ、アダルトビデオに出てきそうな道具
じゃないか、と思い至った。
施術者は妊婦だった。おそらく八ヵ月か九ヵ月くらい
だろう。タオルを取り替えたり、化粧瓶に手を伸ばした
りするたび、膨らんだお腹が肘に当たってびくりとした。
別に意識する必要などないのに、いちいちびくりとして
しまった。そのためにあまりリラックスできなかった。
原稿四枚。
六月七日(月)
梅雨に入って水かさが増したからだろうか、犬の散歩
の途中、ギターがうつぶせになって川を流れてゆくのに
出会う。長い時間水に浸かっているらしく、板はふやけ、
水草や枯葉やお菓子の袋が絡み付いていた。もうすっか
りくたびれ果て、立ち直れないほどに打ちひしがれてい
た。
以前、同じ川で足袋が片方流されてゆくのを見たこと
がある。小さな子供用の足袋だった。それはたった今川
に落ちたばかりという様子で、ぱりっと糊のきいた感じ
もまだ残っていた。十一月の日曜日だったから、たぶん
七五三のための足袋ではなかったかと思う。
犬は立ち止まり、地面に座り込んでじっとギターを目
で追っていた。彼なりにその風景の意味するところを解
釈しようとしているみたいだった。首を傾げ、鼻をヒク
ヒクさせ、よだれを一筋垂らしていた。
原稿0枚。
六月十一日(金)
NHK岡山放送局の情報番組に出る。明後日、倉敷で
開く朗読会の宣伝のため。五年に一度くらい、テレビの
仕事がくるのである。
夕食の支度をしてから出掛けようと思い、大慌てで準
備し、いつもより念入りにお化粧もし、買ったばかりの
白い洋服に着替えた。迎えのタクシーが来た時、なぜか
お鍋の鰯のことが心に引っ掛かった。鰯たちが頭の中に
どどどっと攻め込んできたような気がして、払い除ける
ことができなくなった。仕方なく鰯の煮付けをお皿に盛
り付けておこうと、一匹フライ返しにのせた途端、それ
は滑り落ち、白いワンピースの上で一度バウンドしてか
ら床に落下した。
私はワンピースに散った煮汁の模様を、しばらく見つ
めていた。どうにかして、その模様に隠された暗示を読
み取ろうとした。しかし、そんなことをしても、何の役
にも立たなかった。
原稿二枚。
六月十三日(日)
珍しく今月は朗読会が二回もある。常々私は朗読会と
いうものに積極的ではなかった。自分の小説を自分で読
んで人様に聞かせるなど、そんな図々しいことはできな
いと思っていた。
ところが是非にと勧める人が身近に何人かおり、会場
選びからプログラム、演出、会計まで全部お膳立てして
くれ、断りきれないでいるうち、もう四回めとなってし
まった。
数年前、谷川俊太郎さんが倉敷にいらした際、ご自分
の詩を朗読なさるのを聞いた。客席からの突然のリクエ
ストに応えたもので、予定されたプログラムではなかっ
たが、谷川さんは全く焦ることなく、『宿題』という詩
を一気に読み通した。
肉感的な朗読であった。言葉の一つ一つが輪郭と体温
を持ち、谷川さんの唇から弾け飛んでくるようだった。
大変にすばらしかったけれど、それはもちろん谷川さん
だからであって、自分の小説で同じように成功するとは
とても思えなかった。
だから朗読会をやるたび、申し訳ない気持になり、こ
んな小説しか書けないのかという自己嫌悪にさいなまれ、
ぐったりとして落ち込む。
今回は倉敷にある呉服屋さんの米蔵を改造した、“サ
ロンはしまや”が会場となる。前半は『寡黙な死骸 み
だらな弔い』より、『心臓の仮縫い』を麻生アヤさんに
朗読していただく。麻生さんは話言葉の専門家で、一人
語りの公演などをなさっている。
私は自分が朗読するのは嫌いなのに、人に朗読しても
らうのは好きなのだ。自分の小説を誰かが声を出して読
んでいると、まるでその人から愛を告白されているよう
な錯覚に陥る。
麻生さんの朗読はすばらしい。演劇とも読み聞かせと
も違う、本物の語りである。日本ではなかなか盛んにな
らない文学の朗読という分野に、新しい可能性を示す人
だ。
『心臓の仮縫い』は心臓が身体の外側にくっついている
歌手の話なので、ジャズ歌手の小野ハンナさんとピアニ
ストの及部恭子さんにも出演していただく。ハンナさん
はクリーム色の、肌にぴったりしたドレス姿で、乳房の
脇に本当に心臓が隠れていそうだった。
そして後半は私が友人のお嬢さんと一緒に『毒草』を
読む。私にできることといったら、お客さん全員に聞こ
えるよう、大きな声ではっきり読むくらいのことだ。た
だひたすら、大きな声で読む。
原稿0枚。
六月十七日(木)
マスカットスタジアムへ、広島対阪神戦を観に行く。
私は野球のユニフォームが似合う男性が好きだ。理由は
うまく説明できない。看護婦やスチュワーデスの制服に
欲情する男の人がいるらしいが、彼らの嗜好と似たよう
なものなのだろうか。
いや、違う。なぜなら私は、野球のユニフォームを着
て、野球をやっている人が好きなのだから。
広島側の席しか取れなかったので、大げさに応援はで
きないと思っていたのだが、隣のおじいさんも阪神ファ
ンと分かり、お互い目と目で合図を送り合う。ジョンソ
ンのホームランにより四回まで1対0とリード。藪が調
子よく投げる。
斜め前の席に、とてつもない広島ファンの青年がいた。
かつて何事においても、ビートルズのコンサートでもロ
ーマ法王のミサでも、これほどまでに熱狂した人は見た
ことがない。攻撃の間中飛び跳ね、腕が抜けるくらいメ
ガホンを振り回し、絶叫している。おそらく、グランド
の選手たちの何千倍ものカロリーを消費していることだ
ろう。
もう一人、クモのように金網に張りついているおじさ
んもいる。身体中から粘液が出ているのではないかとい
うくらい、べちゃーっとした雰囲気の人。この人は声も
上げないし拍手もしない。うっとりした視線を広島の選
手に送るだけ。
五回裏、広島の攻撃中に大雨となり中断。嫌な予感が
する。嫌な予感は必ず的中するものだ。再開後、2点取
られる。斜め前の青年は失神寸前、クモおじさんは金網
に身体をすりつけて喜ぶ。
結局、5対1で負ける。雨に濡れながら、駅まで歩く。
藪はやはり、織田裕二によく似ていた。
原稿0枚。
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