麦わら帽とノートパソコン
宮内勝典
5月21日 以前、トカラ列島を転々として、与論島に空
き家を借りて暮らしたことがあった。沖縄の島影がそこ
に見えていたが、パスポートなしでは行けなかった。念
願叶ってついに沖縄の地を踏んだのは、日本復帰した翌
々年だった。そのとき最もこころをひかれたのは市場の
おばあさんたちだった。青空のもと、どっしりと坐り、
笑い、からっとした猥語さえ飛ばし、商いをしつつ燦然
と輝いていた。みんなたくましい巫女に見えた。それか
ら何度も沖縄を訪ねているが、いつも那覇を素通りして、
八重山や波照間島へ通っていたから、事実上、二十五年
ぶりだ。まっすぐ平和通りへ急いだ。あの青空市場は広
大なアーケード街に変わり、おばあさんたちは奥の青物
市場へ追いやられていた。淋しいけれど一介の旅行者が
嘆いてもしかたがない。沖縄はどこよりも苛烈に近代と
直面してきたのだから。やがてはホノルルのようになっ
てしまうのか。
5月23日 馬天港から船に乗り、久高島へ。投宿するな
り、麦わら帽をかぶり、時計回りに島を一周する。汗だ
くになりながら、しかも鳥肌が立つような不思議な気配
がみなぎっている。初めての島だが、どこに御嶽がある
かぴんとくる。おそらくあそこの森だろうと見当をつけ
ていくと、まぎれもなく御嶽の入口に辿りついた。「男
子禁制」の立て札があった。森の奥へ緑のトンネルがつ
づいている。白い道に坐って奥を眺めていると無数の鳥
が群らがり、いっせいにさえずりだした。
島のはずれの岬に立つ。水惑星が茫々とひろがり、波
が打ち寄せてくる。積乱雲があまりにも白く、青空が黒
ずんでみえる。私が立っている石灰岩は、何百万年にわ
たる生き物たちの死骸の堆積である。ここに立っている
〈私〉も一瞬のいまにすぎないこと、〈私〉の死後もさ
らに何百万年という時間がひかえていることをリアルに
実感する。
久高島にもう一つあるはずの御嶽をさがしながら野原
を歩いていくうち、森に迷い込み、さっきの御嶽の入口
にもどっていた。手招きされているような気がしてぞっ
とする。
夜、七十三歳のおばあさんと語る。この島で生まれ、
二歳のときパラオへ移住し、十六歳まで過ごしたのだと
いう。そして戦争が始まり、南洋から帰る船が二回も魚
雷攻撃を受けて沈没したのだという。
5月24日 野原の道を歩いていると、白い衣のおばあさ
んたちが行列をつくって進む光景がありありと目に浮か
んでくる。ウガン浜へ降りていく道は、御嶽のすぐそば
にあった。ここも男子禁制ではないかと迷っていると、
通りがかりの島人が、浜に降りていくだけなら通り抜け
てもいいと許してくれた。森の底に木洩れ日が降り、ゆ
らゆらと揺れつづけていた。鳥がさえずっている。御嶽
と対になっているらしい円形の空き地に、貝と線香が供
えられていた。頭上を仰ぐと、そこだけ青空が見えた。
金剛のように揺るぎない青空だが、たとえようもなく心
地いい静けさがあたりに満ちている。椰子やアダンの茂
みをぬって降りていくと、白い小さな砂浜があった。シ
ャコ貝、サンゴが透明な波に洗われている。なんという
きよらかさだろう。ここで拝むおばあさんたちの姿がま
た目に浮かんでくる。
帰り道、夕暮れの墓地にさしかかった。亀甲墓と少し
造りがちがうけれど、石の家のように大きな墓が、一つ
の村落のようにかたまりあっている。白い衣をまとうお
ばあさんたちがすべて、ここの墓に入っているのだ。こ
の島には二つの世界が重なっている。死者たちが、生者
たちの営みをじっと見つめている世界なのだと思われて
くる。
5月28日 慶良間諸島の一つ、座間味島で日々を過ごす。
久高島にいるころ「ガイドライン関連法」が成立したの
で、数日分の「沖縄タイムス」「琉球新報」をまとめて
読む。沖縄にとって軍事協力は現実そのものである。新
聞の論調には歯ぎしりするような怒りがみなぎっている。
「沖縄タイムス」は四ページぶちぬきの特集である。
この慶良間は、アメリカ軍が最初に侵攻してきたとこ
ろで、血みどろの集団自決があった島だ。首吊りもあっ
た。アメリカ軍は、なぜここを最初の攻略地点に選んだ
のか。どんな作戦だったのか?
6月2日 沖縄市で講演をする。嘉手納基地から飛びた
つヘリコプターの音が聴こえてくる。アメリカ先住民の
独立運動、荒涼とした砂漠の居留地(リザベーション)
を、沖縄のメタファーとして語っていることに気づいて、
若い世代が敏感に反応してくる。質問も鋭く、リアルで、
水準が高い。
宜野湾市にもどり、普天間基地を一望する。滑走路の
まわりには草木が茂り、あちこちに亀甲墓が見え隠れし
ている。滑走路にあったはずの亀甲墓はどうなったのか
訊ねると、ブルドーザーで整地されたのだという。アメ
リカ軍は慶良間を落としたあと、海を埋めつくすほどの
艦隊で迫り、この普天間基地がある西側の海岸線から上
陸してきたのだ。五十五万人の大軍だったという。
6月3日 これまでは気が重く、つい避けていたのだが、
やはり見ておかねばならないと思い立って南部の戦跡を
回る。アメリカの地上部隊が北から迫り、日本軍と、十
数万の民間人を、ここの断崖へ追いつめていった。南側
の海にはアメリカの艦隊が集結して、艦砲射撃の火の雨
を降らせたという。まさに焦土である(沖縄の四人に一
人が死んでいった)。まず慶良間を落として、水を補給
してから、本島の西部海岸に上陸し、日本軍を分断・挟
み撃ちにしていったアメリカ軍の作戦が手に取るように
わかってくる。北部には原生林があり、そこへ逃げ込め
ばやっかいなゲリラ戦になるから、南部へ追いつめたは
ずだ。この沖縄戦のあと、アメリカ軍は日本本土をどの
ように攻略する作戦を立てていたのだろう。
洞窟で集団自決に使われた、鎌、鉈、カミソリ、包丁
などを見た。赤く錆びついている。この死者たちが「ガ
イドライン」のことを知ったら、裏切られた、と感じる
のではないか。現在の日本を軽蔑するのではないか。こ
れがベストの選択であると、私たちは理知で答えうるの
か。
斎場(せーふあ)御嶽の入口で、ユタではないかと思
われる、祭具を抱えたおばあさんたちとすれちがった。
鍾乳石から水が滴る谷を歩き、巨きな手が合掌するかた
ちの岩盤をくぐりぬけていくと、御嶽があった。まった
くなにもない空き地に光りが満ち、ただ静まっている。
海の遠くに久高島が見える。
6月5日 新宿の民族文化映像研究所で『イザイホー
1990年』と、北海道・二風谷アイヌ民族の記録映像
『シシリムカのほとりで』を見る。それから所長の姫田
忠義氏と、日本列島の基層文化やバスクについて対談。
6月8日 札幌へ。高度一万一○○○メートル。右手に
松島が見えますというアナウンスがあり、席を立ち、窓
からのぞくと、太平洋が光りを撥ねていた。左手の自席
にもどると、雪をかぶる鳥海山と海が見えた。びっくり
してスチュワーデスに訊ねると、やはり太平洋と日本海
が同時に見えることがあるという。なんと小さな国なの
だろう。
千歳空港から、まっすぐ札幌大学へ。「北方文化フォ
ーラム」で講演をする。先住民の文化を内面化し、さら
に現代のクレオール現象を受容することによって文化・
文学は活性化していく、イギリスでもフランスでも新し
い文学はそのようにして生まれつつある、といった内容
だが、どうにも話しにくい。なにしろ最前列に、学長の
山口昌男氏が坐っておられるではないか。『クレオール
主義』の著者・今福龍太氏も目を光らせている。ふたり
の文化人類学者と数百人の若者たちを前に、内心、脂汗
をこらえながらの一時間半であった。
6月9日 青空のもと、山口昌男氏、今福夫妻、管啓次
郎氏たちと共に、石狩川の河口へドライブ。水芭蕉の原
生地が奥深くひろがり、無数の鳥がさえずっている。海
をめざして砂丘を歩いていくと、はまなすの花が咲いて
いた。日本海を眺めながら、ヒバリの声を聴く。ほんと
うに楽しい宝石のような時間だった。
6月10日 ふたりの青年と、支笏湖へ。湖からほど遠く
ない不思議な場所へ連れていかれた。緑の苔におおわれ
た谷が延々とつづき、頭上には若葉が密生して、ゆらゆ
らと木洩れ日が降りそそいでくる。谷の終点に円形の空
き地があり、青空が見えた。天頂からくる光りの圧力さ
え感じられる。沖縄の御嶽そっくりの突き抜けるような
静けさがみなぎっている。ここはアイヌの聖地ではない
だろうか。
|