ソドム観光
島田雅彦
8月8日
北京で一泊してから、ウランバートルへ飛んだ。食事
がまずいところへゆくので、出発前に飽食しておく。北
京到着の夜は四川料理の店で、ロバ肉やアヒルの水かき、
魚の浮き袋などを食べ、出発の日の昼は毛沢東の出身地
の湖南料理を食べた。従業員が皆田舎臭い顔をしていた。
それもそのはずで、彼らは毛家の一族で、韶山から来た
農民なのだ。ウエイトレスに「毛沢東の好物だった料理
を三つ出してくれ」と注文した。出てきたのは、干し納
豆と唐辛子、山椒、生姜を和えたふりかけのようなもの、
小魚の干物と唐辛子の炒め物、豚とニンニクの醤油煮だ
った。どれもしょっぱく、辛かった。
モンゴルへの旅に目的はなかったが、大草原を馬で疾
駆してみたかった。これまで、馬は刺身や鍋を食べるば
かりで、まともに乗ったことはなかった。
ウランバートルに着くや、テレルジという高原の保養
地に向かった。保養地といっても、遊牧民のテント(ゲ
ル)がいくつかあるだけ。電気もガスも水道もない。し
かも寒い。馬の糞を燃やし、暖を取る。いきなりの遊牧
生活。草原はハーブの香りがついていた。夕食は羊肉の
スープとパンだけだった。北京から買っていった桃をつ
まみにアルヒ(モンゴルウオッカ)を飲み、無理やり眠
りに就く。
8月9日
明け方、バッタが飛び交う羽音で目覚めた。
午前中は雨。午後晴れたので、馬に乗った。遊牧民は
「ハラショー」しかいわず、何も教えてくれなかったが、
見よう見真似で手綱をさばくうち、馬もいうことを聞く
ようになり、一時間後には、草原を疾駆していた。乗馬
はスキーより簡単だ。夕方、ウランバートルに戻った。
イギリス大使館の脇に ASIAN hotel なる怪しげなバー
があり、ひっきりなしにイカレタ女が出入りしていた。
町では売店のおばさんまでロシア語を話す。面白いの
で、用もないのにロシア語で話しかけていた。デパート
で客の目の前にブラジャーを掲げ、こんなことをいう店
員がいた。
これはロシア製です。だから、いいものです。ロシア
語を話し、ロシア製品をありがたがっている人々はモン
ゴルにしかいないだろう。
8月10日
昨日の乗馬の筋肉痛で寝返りもつらい。セネガル風フ
ランス料理店、外国人が集まるビアホール、娼婦がたむ
ろするローカルバー、モンゴル式キャバクラ、ストリッ
プありのディスコとはしごを重ねたが、筋肉痛には効か
ない。
モンゴルの男たちはよくアルヒを飲む。バーにふらり
とやって来ては、一○○ccのアルヒを一気に飲み干し、
金を置き、黙って出てゆく。この酒はまた、彼らをよく
喧嘩に走らせる。マッチョなんだな。逆にマッチョでな
けりゃ、世界征服なんてやろうと思わないだろう。しか
し、モンゴル人の世界征服って何だったのか? あれは
台風みたいなものだったのかも。ただ、馬で世界を駆け
抜け、各地でただ飯を食い、略奪をし、町を破壊し、女
を強姦し、また草原に帰っていっただけだった!?
8月11日
ジープをチャーターして、カラコルムへ向かった。道
中、至るところで、プレーリードッグの姿を目撃した。
時々、巣穴から出て、二本脚で立ち、あたりを睥睨する
癖のあるこの地底都市の住人は、よく狩りの標的にされ、
モンゴル人に食われてしまう。
風邪をひいてしまった。それでも、馬に乗って、草原
を疾駆し、遊牧民を気取っていた。馬上で食事もすれば、
セックスもし、世界征服までやってのけたモンゴル人を
少しでも理解しようと思ったら、ひたすら馬に乗るしか
ない。それにしても尻や太股が痛い。武豊を改めて尊敬
し直す。
8月22日
この夏の家族サービスはミャンマー行き。午後七時に、
ヤンゴンに到着。トレーダーズホテルに宿を取り、食事
へ出かける。ふらっと入った食堂で、ビールを飲み、ひ
なびた料理をつまむ。店員は、ビールは注いでくれるわ、
ハエは払ってくれるわ、子どもの相手をしてくれるわ、
サービスがやたらにいい。チップを渡そうとしても遠慮
する。
ここはまだサービスに対価を求めないくらい素朴なの
だ。もう少し、現金が流通し始めたら、親切心は消え、
サービスが悪くなり、金を追いかける目つきに変わるの
だろう。
8月23日
終日、パゴダ巡り。金色に輝く仏塔がいくつも並ぶ、
タイル張りの広い境内を裸足で歩く。いたるところで信
者たちが手を合わせ、祈り、お布施を捧げている。寺は
憩いの場所でもあり、家族連れが弁当を広げたり、労働
者が風通しのよい鐘楼で昼寝をしたりしている。彫りが
深く、表情豊かな仏像の数々は見ていて、飽きない。息
子は全ての仏像に合掌をして回る。何をお願いしたのか
と聞くと、「頭が悪くなりませんように」と応えた。あ
まり、息子をバカというのは止めようと思った。
巻きスカート風の民族衣装ロンジーは風通しもよく、
炎暑のパゴダ巡りにはうってつけだった。息子にもロン
ジーを着けさせるが、歩いているうちにほどけて、パン
ツが見えてしまう。息子はガイドのキン・タン・ウイン
さんとすっかり仲良くなる。
9月10日
ロンドン経由でイスラエルへ行く。なぜ、私はこうも
落ち着きなく旅を重ねているのだ? フライイング・ダ
ッチマンでも商社マンでもないのに。
早朝にエルサレムに到着。ちょうどユダヤ暦の正月に
当たってしまい、ホテルは何処も満員で、キリスト教の
ファンダメンタリストのゲストハウスしか空いていなか
った。刑務所の独房みたいに狭く、殺風景な部屋にいた
くないので、旧市街をうろつきまわる。
ここは全く地球の箱庭のようだ。三つの世界宗教それ
ぞれの聖地ゆえ、一キロ四方に満たない界隈にジューイ
ッシュ・クオーター、ムスリム・クオーター、アルメニ
アン・クオーター、クリスチャン・クオーターがひしめ
き合っている。ユダヤ教徒が黒服で一心に祈る嘆きの壁
のすぐ裏に、金色に輝くモスクがあり、その下にはイエ
スが十字を背負って歩いた道ヴィア・ドロローサと、ゴ
ルゴタの丘がある。雇ったタクシーの運転手はギリシャ
系イスラエル人で、正教徒だった。また、ロシアからの
移民も多く、英語が通じないと思ったら、ロシア語を話
せば、通じる。
9月12日
砂漠へ行く。たちまち干物になるくらい暑く、乾いて
いた。寒暖計は41度を差していた。ガイドは砂漠にまつ
わる歴史の講釈を始めた。二千年以上前から、ここには
岩塩を運ぶ交易ルートができていた。死海周辺には、二
万年前に流れ込んだ海水が干上がってできた岩塩の分厚
い地層があって、ここから切り出した岩塩を地中海まで
運んでいた。塩は貨幣の代わりを果たしており、労働に
対しては現物支給がされていた。サラリーの語源はソル
ト、つまり塩から来ている。また、塩の道にはたびたび
山賊が現れ、商人たちを襲った。そこにたびの安全を守
ってやるから、オレを雇え、というボディガードが現れ
る。地回りのやくざみたいなものだ。ケチってその申し
出を断ると、ボディガードは山賊に変身する。いつしか、
彼らはソルジャーと呼ばれるようになった。この語源も
ソルトから来ている。
ところで、地図にソドムの地名が記されていたので、
案内を請うたが、そこには何もなかった。死海のほとり
にあって、全てが塩まみれになっていた。ソドムが何処
にあったかを伝える考古学資料は一切ない。ともあれ、
私はソドムへ行き、観光してきた。その昔、誰かの妻だ
ったかもしれない岩塩の塊を土産に持ち帰った。
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