立ち読み:新潮 2016年10月号

野の春 『流転の海』第九部 第一回宮本 輝

第一章

(一)

 京都の刀剣商に預けておいた関孫六兼元の代金五十万円を受け取ると、松坂熊吾はその足で大阪に帰り、大正区の河内モーターへ行き、借りていた金を河内佳男に返した。
 もう少し時間があれば八十万円で売れると刀剣商の幣原悦男は惜しそうに言ったが、熊吾は伸仁の大学入学に要した金だけは河内佳男に四月中に返済しておきたかったのだ。
 刀の研ぎ代と手数料を引いた四十万円のうち二十万円の現金が入った封筒を河内佳男の机の上に置き、
「あの関孫六兼元は不思議な巡り合わせじゃ。あの名刀をわしに売った男の名前も素性もわからん。幾らで買うたのかもよう覚えちょらん。何年か前にある人に売ったが、そのときも五十万円じゃった。その人が死ぬときに刀を返してくれた。なんで返してくれたのか、それもようわからん。きょう、京都の刀剣商に売ったのも五十万円。合わせて百万円。あの関孫六は、土壇場のところで助けてくれよった。本当の名刀じゃのお」
 熊吾はそう言ってから、頭を深く下げた。
「どんな名刀やったのか、いっぺん見せてほしかったですなあ」
 河内は言って、伸仁が書いて印鑑を捺した借用書を熊吾に渡した。ノブちゃんに貸すのだから、本人に借用書を書いて届けさせてくれと要求したのは河内だった。親がどんな苦労をして大学に行かせるのかを少しでもわからせておきたいという河内の心遣いだったのだ。
 伸仁が入学したのはことし開学となった追手門学院大学で、茨木市に新しいキャンパスがある。追手門学院は八十年の歴史があり、大阪城のすぐ近くに小学部、中学部、高等学部の校舎が並んでいる。大阪の軍人の子弟を教育する学校として明治二十一年に当時の大阪鎮台司令官で陸軍中将だった旧薩摩藩士の高島鞆之助が設立した。薩摩藩独特の郷中教育を取り入れるという理念を元としていた。校名は大阪偕行社学院だったが、戦後に日本から軍人というものがいなくなって追手門学院と改めた。
 大学を持つということは積年の望みだったが土地の確保や資金等の問題があって叶わなかったのだ。
 この追手門学院にやっと大学が設立されると熊吾に教えてくれたのは河内佳男だった。
 河内は自分の長女を小学生のときから追手門学院に通わせていたが、それは河内の妻が鹿児島出身で、父親から薩摩藩の郷中教育についてよく聞かされていて、少々無理をしても娘を追手門学院で学ばせたいと言い張ったからだ。
 関西では昔からよく知られていた学校だったし、戦後は裕福な家の子弟が通う学校としての地歩を築いていたので、熊吾は浪人中の伸仁に勧めてみた。高校を卒業してすぐに梅田の予備校に通っていた伸仁は、
「授業料、高いかもしれへん」
 と気が進まない表情で考えていたが、足りない分はアルバイトをしようと気楽な調子で受験したのだ。
「ノブちゃんは中央市場の乾物屋でのアルバイト、つづいてますのか?」
 と河内は訊いた。
「ああ、朝の五時に起きて六時から十時までじゃ。水曜日と土曜日は一時間目の授業を受けにゃあいけんからアルバイトは休むしかないらしい。じゃけん、週に四日は朝早うから働いとる。乾物のこともだいぶわかるようになったと言うちょったぞ」
 応接用の机には朝刊が置いてあり、けさもアメリカ軍の北ベトナムへの空爆の記事が一面で報じてあった。
「憲法で戦争放棄を明言したお陰で、日本の若者はベトナムの最前線に行かんですんじょる。それだけでもありがたい。憲法改正論者は、それを怪我の功名とは思わんのかのお」
 熊吾の言葉に、
「もう泥沼ですなあ。いつ終わりまんねん? アメリカの若い兵隊は、なんで自分らがベトナム人と殺し合いをせなあかんのか、どうにも釈然とせんまま、ジャングルで機関銃を撃ちまくってまんねんなあ。ケネディが暗殺されてジョンソンが大統領になったら、一気に北ベトナムへの空爆が増えましたなあ。そやけど、宣戦布告してないのに戦争といえますか?」
 そう言うと、河内は近くの中華料理屋に電話で出前を頼んだ。熊吾にはワンタン麺、自分にはギョウザと焼き飯という十年一日の如く変わらない昼食だった。
「ヨシさん、ちょっとは違うもんを食おうとは思わんのか」
「そやけど、大将もワンタン麺を好きですやろ? あそこの中華料理屋は、このみっつしかうまいもんがおまへん。このみっつだけは抜群にうまい」
「日本は平和じゃ。ありがたいことじゃ」
 熊吾は昭和四十一年四月三十日土曜日の朝刊を読みながらワンタン麺を食べ、伸仁は来年二十歳になると思った。
 河内に借りた進学費用も返した。肩の荷が降りた。俺の父親としての責任は果たした。しかし、松坂熊吾という「大将」の責任はまだ果たし終えていない。
 博美がひとりで生きていけるようにしておかなければならない。いまのままの商売のやり方では先細りだ。博美の店から歩いてたった一分のところに大阪環状線の福島駅が完成した。その地の利を生かさねばならない。いまが絶好の機会なのだ。関孫六を売った金の半分は、たぶんそのために使うことになるだろう。
 おそらく房江や伸仁と一緒に暮らすようになることはないであろう自分への投資と考えればいい。
 神田三郎はことし大学を卒業したが、一年間はお礼奉公させてくれと他の会社には就職せずにハゴロモと関西中古車業連合会の仕事をつづけてくれている。しかし、俺は神田が来年新しい職場を得て会計士となれるように支えてやらなければならない。
 千鳥橋の大阪中古車センターを明け渡さなければならない事態になっても、佐竹善国が働ける仕事を用意しておいてやりたい。
 木俣敬二の「チョコクラッカー」の売り上げが少しずつ減ってきている。飽きられてきたのかもしれない。キマタ製菓が儲かっていないと佐竹ノリコは再び市場の魚屋に舞い戻るはめになる。
 大阪中古車センターは相変わらず閑古鳥が鳴いている。中古車を買うための客が足を運んで来るということはない。客が訪れるのは中古車ディーラーが車で案内して連れてくるときだけだ。
 しかし、関西中古車業連合会の会員たちにとっては、じつにありがたい車置き場ではあるのだ。常時十台ほどの中古車の駐車場を確保できるなら、連合会への月々の会費は安いものだということになる。
 発足当時からの中古車ディーラーはみなそのような考え方をしてくれているが、新しい会員のなかには不満を漏らす者が多い。そのために連合会の体裁作りのひとつとして「中古車ニュース」を毎月一回発行することにして、伸仁の友だちである印刷屋に話を持って行ったが、肝心の原稿を書く暇がない。
 伸仁に手伝ってくれと頼んだが、アルバイト代を要求された。五千円払えという。どういう行きがかりかテニス部に入部するはめになって、まずテニスコートを作らねばならないらしい。だから会報を作る時間がない。

(続きは本誌でお楽しみください。)