立ち読み:新潮 2017年8月号

ウィステリアと三人の女たち/川上未映子

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 何人かの作業員がやってきて、まず塀が取り壊された。まるで幼い子どもがフォークをふるって、でたらめにケーキを切りくずすときのように煉瓦は崩れ、翌日には、庭がそっくり姿をあらわした。
 春になるといつも塀越しに花の部分だけを眺めていた藤の木の、全身が見えた。黒々とした幹は思っていたよりも太く、その下にはひょうたん型にくりぬかれた池があった。水はすっかり抜かれ、去年の落ち葉が色を失って底に張りついていた。その奥には古風な造りの縁側が見える。さらに翌日には小さな黄色のショベルカーがやってきて、怒ったような低いうなり声をあげながら庭を掘り起こしていった。
 藤の木は三十分ほどで切り倒され、土のうえに放りだされた根っこは何かをつかもうとして途中で力尽きた手のようにも見えた。物干し竿や、植木鉢や石が、次々にかきまぜられていく。縁側を越えて家屋にも彼らは乗りこんでゆき、そこにある家具や障子なんかをおかまいなしに押し潰していった。家を壊すのってこういうふうにやるんだ。わたしは少し感心した。数メートルの舗道を挟んだはす向かいの角地に建っている、その古くて大きな二階建ての家は目の前で壊されようとしていた。わたしはそれを、二階のキッチンの窓から眺めていた。
 その家には老女が住んでいて、ときどきその姿を見た。わたしたちがここへやってきたのは今からちょうど六年前のことで、その家には何度か引っ越しの挨拶に訪ねたけれど、誰も出てこなかった。ほんのときどき、朝か夕方にカートにもたれるようにしてゆっくりと家のまわりを歩いている彼女とすれ違うことがあった。会話をするでも言葉を交わすわけでもなかったけれど、そんなときは不思議と気持ちが和むような気がした。いつも黒いブラウスを着て黒のカーディガンを羽織っていて、春の夕暮れ時には、錆びた門から箒とちりとりを手に持ってゆっくりとした足取りで舗道に出てくるのを見かけた。藤の花びらはよく落ちた。アスファルトの灰色に、白と薄紫の濃淡になって広がり、風が吹くたびに何かを思いだすみたいにふわりと舞った。老女は長い時間をかけてそれらを端のほうから掃き入れていった。少しの風の夜にも花びらは降り、翌朝になるとあたりはもううっすらと色づいている。翌日、またおなじように老女が箒とちりとりを持ってゆっくりと外に出てくる。それが花の終わる頃まで続く。でも、そういえば最近すっかり姿を見かけなくなっていた。最後に見たのはいつだった?
ほかには誰が住んでいたのだっけ。そんなに若くない女性がひとり、出入りしていたような気がする。

「お向かいのおばあちゃん、亡くなったのかな」
 夕食のときに、わたしは言ってみた。夫はテレビの画面に目をやったまま、しばらくしてから曖昧な返事をした。
「工事してるの。毎日ものすごい音」
「ああ、解体工事ね」夫は言った。
「そう。いろいろ見える」
 わたしは食べ終わった自分の皿を重ねて、流しへ持っていった。夫は缶ビールを飲みながらテレビを見て声を出さずに笑い、皿のうえの野菜炒めをちびちびと食べていた。土曜日の夜だ。食器をまとめて洗ってしまいたかったので、しばらくのあいだ流しの前に立って夫が食べ終わるのをじっと待っていたけれど、夫はそんなことには気がつかない。しばらくして目が合うと、ビール取って、と言った。わたしは冷蔵庫から冷えたビールを取りだしてテーブルのうえに置き、階段を下りて寝室へ行った。

 三歳年上の夫と結婚して、九年になる。
 わたしが二十九歳で、夫が三十二歳のときだ。その三年後に、この家を買った。
 夫は外資系製薬会社の営業職に就いていて、毎朝きっかり八時に家を出てゆく。夫を見送ったあと、わたしは家のまわりを掃いてから水を撒き、朝食の後片づけをしてタオルやらシーツやらをまとめて洗濯機に入れて、スタートボタンを押す。数十分後に洗い終わったものを干し、リビングとふたつの部屋に掃除機をかける。十一時半になると簡単な昼食を作って食べ、それから駅前のスーパーに食材を買いにでかける。歩いて十分ほどの距離だ。買うものはほとんど決まっていて、いつも似たようなものをかごに入れる。冷蔵庫に物がたくさん入っているのを夫が嫌うので、その日に使う物をその日に買うようにしているのだ。だからいつも冷蔵庫の中はがらんとしている。
 時間をかけてキッチンを磨き、ときどき窓を拭く。腕をのばして、裏も表もできるだけ磨く。六時ごろに夕食を作りはじめて、できあがったものをひとりで食べる。テレビをつけて、テレビを消す。十時頃、夫が帰ってくる。シャワーを浴びているあいだに作っておいた食事を温めなおす。夫はときどき嘘をつく。深夜の情報番組を見ながらビールを飲み、食べ終わるとベッドにもぐりこんで長いあいだスマートフォンの青白い画面を見つめている。夫の目のまわりは朝がくるたびに暗く沈み、もたれかかるようにドアを開けて、家を出る。

(続きは本誌でお楽しみください。)