立ち読み:新潮 2018年1月号

ビッグ・スヌーズ/矢作俊彦

【1】

 そのころはまだ、周囲にひょろ高い雑居ビルなど建ち並んでいなかったので、山手の丘のはるか西のはずれにぶら下がったその坂道は、崖下に横たわる運河とごちゃごちゃした横浜の下町へ向かって伸びた、長い長い滑り台のように見えた。
 自転車で下れば錆色のプールへ飛び込むウォータースライダー、もしスケートボードだったらフライングヒルのジャンプ台にも見えただろう。
 四月の第三土曜日だった。私はスーパーチャージャーとは名ばかりの羽根車つきエンジンをこれ以上ないというほど行儀よく回し、その坂を上った。正面には雨を予感させる重く暗い雲があり、背後には首筋がヒリヒリするほどの日差しがあった。
 上り詰めると、道は米軍住宅のゲートにぶつかり、そこでほぼ直角に曲がっていた。
 右手がときどき拓け、ワイヤーフェンスに囲われた芝生の丘陵に砂糖菓子のような色合いの小体なハウスが散らばっているのが見えたが、半分以上には人が住んでいる気配がなかった。
 左手は可もなく不可もない民家が崖っぷちに押し合いへし合いしがみついていて、エンジンブレーキの喉鳴りひとつで、崖下を平行して流れる運河に転がり落ちてしまいそうだった。
 道は狭く、何度も折れ曲がり、電信柱と電線が上空を寸断していた。反対端とはいえ、これがフランス山から外人墓地を掠め、山手の尾根を縦走する山手本通りの一部とは誰も思わなかったに違いない。
 米軍住宅が遠ざかって少しすると、右手に低い石積みを土台にした竹塀が現れた。その向こうからは、もくもくと音が聞こえそうなほど勢いづいた緑がせり出ていた。
 塀も木立も驚くほど長く続いた。気づくと、電柱も電線も、通りから消えていた。塀の向いには妙に立派な交番があって、体つきのいい巡査が机に向かっていた。いったいどこのどなたが気を使ったのか知らないが、まあ仕方ない。そこには横浜の歴史が住んでいるのだから。
 チェーンポールどころかパイロンさえなく、道路から車回しには誰でも入ることが出来た。木々に隠れて、そこから家も見えなかった。不法駐車にはもってこいだが、無用な者を近寄せないものものしさがどこかにあった。
 そこから玉石を敷いた道が続き、片側は桂垣になっていた。生えてきた竹を、歯の矯正器みたいな仕掛けで、無理やり真下に折り曲げてこしらえた生け垣だ。さらに行くと、門があった。茅葺きの屋根に透かし戸の質素な門だった。
 家は、それほどのものではなかった。三溪園の鶴翔閣よりは小さく、屋根も茅葺きなどではなかったし、横山大観が長逗留したくなるほどの造作ではなかった。
 玄関まで、慎重に配置された植木で家全体が見渡せないようになっていた。飛び石が点々と続き、最後の沓脱ぎ石は平たい雲のようだった。建物を庭の一部として、木や石や水と徹底的に混ぜてしまおうという強い意思が感じられた。
 黒光りする式台の向こうの障子は開け放され、声をかける前から、近づいてくる足音が聞こえた。防犯カメラがいくつも、Nシステムのように仕掛けられているのだろう。
 白いワイシャツの上に刺し子の半纏をはおった老人が現れ、言葉とも仕種とも区別できないひとつの雰囲気で私を取次の間へ招き入れた。
 私は靴を脱ぎ、身なりを改めた。パウダーブルーの背広にポピーで仕立てたホワイトシャツとレジメンタルのネクタイ。髭は念入りに剃ったし、床屋には行ったばかりだ。
 誰がどう見ても半端な公務員とは思うまい。立派な紹介者に恥をかかせるようなことはない。
 老人が檜の網代戸を開けると、そこから続く廊下にも畳が敷かれていた。
 通された先は、八畳の和室だった。こぢんまりとしていたが、欄間には今にも火を吐き、天に駆け上がりそうな龍が透かし彫りになっていた。
 中央に置かれた漆塗りの腰高の椅子を勧め、老人は音もなく引っ込んだ。
 じきにかすかなモーター音が聞こえ、反対側の障子が開いた。
 実物の黑田孚瑣子くろだふさこはとても小柄だった。そして若かった。肌はどこもすべすべとして、顔には皺ひとつなかった。手は家事を一切したことのないピアニストの手だった。
 八〇歳を過ぎているとはとても思えなかった。
 若いだけではない。そこらじゅうに美しかった娘時代が残っていて、むしろ時間によって磨き上げられた印象を与えた。黒地に花を散らしたお召しには、金と銀がふんだんに使われていたが、きりっとした顔だちは少しも見劣りしていなかった。
 彼女は電動の車椅子に乗っていた。和室に椅子が置かれていた理由はそれで分かった。
「二村です」私は言った。「二村永爾。森脇交通局長が県警で刑事部長をされていたころ、お世話になった者です」
 世話になったのではない。私が引き起こした不祥事のせいで、彼はしばらくの間、地方に飛ばされていた。それまで、――つまり、不祥事を引き起こすまで、口をきいたこともなかった。県警刑事部長と言ったら、一介の刑事が口を聞けるような相手ではなかった。
 今年の春、交通局長としてめでたく警察庁へ戻った森脇が、一昨日電話をしてきた。
 大変親しい女性が、災難にあって困っている。話を聞いてやってくれと、彼は言った。警官にしかできないが、警官には頼めないようなことなんだ。
「あら、いやだ。ほんとうに恥ずかしい」。孚瑣子が突然声を上げた。「もう季節外れと思ったけれど。今年は競馬場がなかなか咲かなくて。すっかり行きそびれてしまいましてね」
 競馬場というのが、向いの根岸台地に広がる森林公園だということはすぐに分かった。しかし、なかなか咲かなかったのが何か、彼女が片手を挙げて見せるまで分からなかった。
 その袖に桜が舞い降り、裾では漆黒の空に満開の並木が描かれていた。
「お庭の一本二本では、どうもねえ。それに、気が塞いでいるときは桜が一番の薬でしょう」
「失礼しました。あんまり、お美しかったものだから。でも見とれていたのはお召し物じゃありません」
「あら。どうしましょう」彼女は少女のような歓声を上げた。「森脇君も、素敵な方を紹介してくださったこと」彼女は胸のあたりでかすかに笑い、器用に車椅子を反転させた。
 部屋を出て、私が車椅子のグリップに手を添えると、
「ありがとう」と言って、私の手に軽く触れた。
「首実検は合格ですか」
「なあに、それ」
 気に染まなければ、水際でやんわりお帰りねがおうという寸法だ。あの部屋までは、まだ家の外側だったのだろう。
 目の前で障子が音もなく開いた。かまちに手を添えて、例の老執事が板廊下にかしこまっていた。
 廊下の向こうには、戸もなく窓もなかった。縁側というには長すぎ、広すぎた。庇が大きく張り出して、簾が吊られていたが、そこはすでに庭先だった。私のいる場所からは、部屋も廊下も庭も、さらにはるかに連なる町を、ひとつの広がりとなって見えた。
 ゆるやかな斜面に配された枝振りの良い木々の中には、桜の古木も数本混じっていた。池の端にはしだれ桜もあった。
 ソメイヨシノはとっくに散っていた。桜吹雪もすっかり掃除されていた。しかし、これだけの桜を独り占めできたなら、馬糞と不発弾に埋もれたあんな公園まで出かけて行く必要もない。何しろ彼女の庭はダート千六百メートルの根岸の馬場より広いのだ。
「ここで、よろしいかしら」広く長い廊下で車椅子を止めた。
「もちろんです。寝ころがって良いですか」
 孚瑣子は少女のように笑った。今はもう絶滅した、三つ編みで頬の赤い少女だ。
「お座布ざぶぐらいお出ししますわよ」
 老執事がどこかから出現し、座布団とお茶の乗った盆を差し出した。
「これで、滑っても良いですか」私は座布団に座って言った。「これだけ長い廊下で、一度やってみたかったんです」
「そう。昔の子供はみんなそうだったわね。私もよく、父に怒られましたよ」
「ここでお生まれになったんですか」
「いえ、ここは戦後少したってから買いましたの。私は野毛山の生まれよ」
「まだ動物園なんかなかったころの?」
「ええ。もちろん」
「ぼくは、ペンギンが好きでした。入場料が十円だったころですよ。よく遊びに行ったものです」と、私は言った。
「あなた、ほんとうに面白い方ね、二村さん。――いったい、森脇君からどんなことを聞かされてきたのかしら」

(続きは本誌でお楽しみください。)