立ち読み:新潮 2018年1月号

[対談]言語を旅する移民作家/多和田葉子 沼野充義

「ナボコフ度」が非常に高い

沼野 今日は多和田葉子さんをお迎えしてのナボコフをめぐるトークということで、私自身も楽しみにしていました。『ナボコフ・コレクション』は、ナボコフが前期にロシア語で書いていた作品を、ロシア語の原典を底本として訳していくというのが基本方針になっています。
 今回対談するにあたってあらためて思ったのですが、多和田さんは「ナボコフ度」が非常に高い。「ナボコフ度」というのはこのコレクションの共同監修者でもある若島正さんがよく使う言葉で、最近の『アーダ』(早川書房、二〇一七年)の新訳でも、若島さんはこの長編は「ナボコフ度200%」だ、と言っておられました。そこで今日は「ナボコフ度」というものをベルリンの描写を例に、まずご説明したいと思います。ナボコフは一九二〇年から三七年頃までベルリンに住んでいて、ベルリンを舞台にした作品がたいへん多い。初期の短編には「ベルリン案内」という、そのものずばりのタイトルの作品もあるほどです。多和田さんはドイツに行ってから、最初はハンブルクに住んでいたわけですが、ベルリンに移ってからもう長いですね。

多和田 十一年です。

沼野 多和田さんの小説にもやはりベルリンが多く出てきます。特に最近単行本で出た『百年の散歩』(新潮社、二〇一七年)は、ベルリンという街と言葉そのものが主人公ともいえる作品なので、これをナボコフのベルリンと比較すると面白いと思います。長編『賜物』の冒頭には運送会社のトラックが出てくるんですが、そのトラックに書かれた文字を指してナボコフは、「一階級上の次元にもぐりこもうとする不正直な試み」(『賜物』沼野充義訳、河出書房新社、二〇一〇年)と書いています。ここだけ読むと奇妙な比喩表現にも思えるのですが、これは実在した運送会社SCHAFERのロゴが立体的に浮かびあがって見える――つまり二次元のものが三次元に見えるように装飾されているさまを書いたのだろう、ということが研究者によって突きとめられています。実際、当時の写真を見ると、大きな文字に左側から黒い影がつけられて立体的に見える。要するにナボコフは一見不思議なものを描いているようでありながら、当時のベルリンを実に正確に描写しているんです。『賜物』第二章には、回想のうちに現われるロシアの風景がいつのまにかベルリン市街に移行していくという見事なシーンがありました。周りの風景がベルリンに変容していくなかで、KAKAOという文字だけはまだロシア語のままに見えた、というのですが、ここにはちょっとした仕掛けがあって、実はKAKAOって、キリル文字で書いてもドイツ語で書いても、まったく同じなんですね。だから主人公はこれをロシア語だと思い込んでいても、実際にはドイツ語にいつのまにか移行しているのかもしれない。
 一方、多和田さんの『百年の散歩』の「マヤコフスキーリング」という章のなかには、パイナップルの話がでてきます。パイナップルはドイツ語でもロシア語でも「アナナス」だけれど、キリル文字で書くと「アハハック」と読まれてしまうかもしれない、という箇所です。でもこれは、アナナスをキリル文字で書くとАНАНАСになるということを知らない読者にはちょっと理解できないでしょう。
 ナボコフもこの種の言葉遊びが好きで、アメリカでの大学の講義中、教室に黄色い花瓶(vase)に青い花が差してあるのを見て、「イエローブルーヴァースだ」と言って、とても大事なことのように面白がる。なんのことかと思えばそれがロシア語の「私はあなたを愛しています」(Я(ヤー)люблю(リュブリュー) вас(ヴァース))のように聞こえる、というわけなんです。

多和田 ナボコフは学生に「親父ギャグ」なんて言われなかったんでしょうか。日本には言葉遊びの豊かな伝統がある反面、近代以降、言葉遊びをひどく軽蔑する傾向もあって、下手に言葉遊びなんかすると馬鹿にされることも。

沼野 「ギャグ」とはいっても、これはナボコフの大好きな、二カ国語間の言葉遊びですからね。この回想を残している当時の学生にとっては、強烈な印象があったんでしょう。

多和田 言葉遊びを馬鹿にする人がなぜ存在するのか。一つ、思うのは、言葉を音だけでとらえ、意味を忘れて楽しむことができるのは、子供か外国人だ、という思い込みがあるんじゃないでしょうか。ある社会に正式に所属する大人として認めてもらうためには、言葉遊びなんかして笑っていてはいけないというような。でも移民作家にとっては、言葉の表面みたいなもの、つまり響きとか文字とかですが、その表面で戯れるのが楽しくて仕方ないんです。

沼野 多和田さんは初期から一貫して言葉遊びを追求しておられましたが、今回ベルリンを舞台にした『百年の散歩』は、特に顕著だと思います。言葉についての小説という側面が強いですね。

多和田 そうですね。それは舞台であるベルリンが人の移動の多い大都市であることにも関連しています。小さな村なら、そこに住んでいる人のことはみんな知っている。そこにたまにふらっとどこかから謎の人物がやってくる、という小説はありますが、それはせいぜい一人、二人です。でも都市を散歩している時は、右にいるのも左にいるのもみんな知らない人ばかり。しかも、たとえば私がベルリンを歩いていたら、日本語をしゃべっている人とすれ違う可能性は大変低い。いろいろな言語が飛び交うなかで理解できない会話もたくさん耳に入ってくるし、フランス語がドイツ語に聞こえたり、ロシア語が日本語に聞こえたり、という混乱も起こる。広告やポスターなどが自分の知らない言語で書かれていることもある。すると文字そのものに妙に存在感が出て来る。

(続きは本誌でお楽しみください。)