立ち読み:新潮 2020年3月号

首里の馬/高山羽根子

 台風があきれるほどしょっちゅうやって来るせいで、このあたりに建っている家はたいてい低くて平たかった。全国のあちこちで見られる尖った屋根だとか複雑な形をした柱や庇は、優美である以外にも寒さをしのいだり雪に耐えたり、地域ごとの利点がある。ただ、それほど頻繁には出くわさない程度の強風には弱いところがあった。風で屋根が吹き飛ぶというのは、直接強風に飛ばされたり、ものがぶつかって欠けるといった単純な破壊だけじゃない。風というものは空気の流れなので、複雑な形状のものに当たると圧力の渦が生まれる。建物の表面には真空に近い状態の箇所がいくつもできて、屋根だとか壁が内側からめくれ上がるみたいにしてはがれていく。なるべく風の影響を受けることがないようにと考えるなら、たいていはでこぼこした部分のあまりない、四角っぽく平らな屋根の建物を作る必要があって、それがこのあたりの民家の特徴になっている。さらに古くからのきちんとした家なら、素焼き風の赤銅色をした瓦が吹き飛ばされないようにと、すきまを白い漆喰で埋めてあった。これは強風対策のほかに小獣や鳥、ハブなどが巣を作らないようにという目的もある。このオレンジと白の独特な屋根の色模様が南国特有の景色に溶けこんで、うまいこと風情をかもしだしていた。
 ただ、首里周辺の建物の多くは戦後になってから昔風に新しく作られたものばかりだ。こんなだった、あんなだった、という焼け残った細切れな記録に、生き残った人々のおぼろげな記憶を交えて作られた小ぎれいな城と周囲の建物群は、いま、それでもこの土地の象徴としてきっぱり存在している。
 港川と呼ばれている一帯、かつての外国人住宅――といったって、それができた当時、ここは日本にとって外国だったから、厳密にはその呼称はまちがっている気がするけれども――を最近になってリフォームしたモダンな建築物が、この区画だけ集中してたくさん残っている。薄黄色や水色のペンキで塗られた平たく四角いコンクリート造りの壁面を持ったこれらは、今もっぱら店舗用の賃貸になっていて、若い人向けの雑貨屋や古着屋、カフェやギャラリーとして利用されていた。周辺がこんなふうにいろいろに使われてにぎわい始めた近ごろは、国内だけでなくアジアのあちこちからも観光客が訪れている。
 この地域には、先祖代々、ずうっと長いこと絶えることなく続いている家というものがほぼなかった。英祖による王統で中心の都だったとされるこの地の歴史は、現在までとぎれとぎれの歯抜けになっていた。かつて廃藩置県、つまり琉球処分で区画が引かれなおして、そのうえ太平洋戦争では日本軍が那覇・首里に沖縄戦の要衝を置き、その前哨地として、ひどい激戦が続いた。ここらあたりの建物はほぼ損壊、どころか跡形もなく消え去った。もちろん建物だけではなかった。本土から沖縄を守るためにとやってきた日本軍の兵士は、前もって聞かされていたよりずっと少数で、しかもまともに最新の兵器が扱える能力を持ったものはほとんどいなかった。結局主力になったのは、防衛召集と称してかき集められた、とりたてて特別な訓練を受けていなかった地元の民間人だった。沖縄のあらゆる場所には青年男子なしといわれるようになってしまい、あちこちで女子学徒隊も組織されていた。この戦いで彼らをはじめとした住民、地域の人間の死傷者数は「不明」。この正式な記録は現在までずっと変わることがない。
 戦後、沖縄はすべて米国領アメリカーになった。焼き払われてすっかり平らになった土地には、基地の近くといわずあらゆるところに、さまざまな住宅や施設ができた。現在はひとまず日本ということになってはいるものの、それでもまだあちこちが米国領の痕跡を残していて、地区によってはまだ、れっきとした国外として扱われている場所もある。
 いっぽうで地名のほうはなぜか王朝時代の昔から変わらず、ときにローマ字や漢字で表記されて歪みながらも音の印象は残したまま、何層にもほかの意味が塗り重ねられて、なんとなくかつての面影を残しながら今に至っていた。
 現在、観光地としてささやかな人気を得ている外国人住宅から、徒歩で行けるくらいの範囲には、ここがまだ本来どおり住宅の目的として使われていた、つまりはまだ米国領だったころ、住人の生活の一部として機能していた商店や教会といった施設の痕跡がところどころに残っていた。中には外国人住宅と同じころに建てられたものの、そのままなんの手も入っていない、今はもうなにに使われているのかわからない建築物もいくつかあった。観光客や住民も多く賑やかな一帯にもかかわらず、そのあたりはほかに比べて若干ひっそりと落ち着いている。
 地域の中に、一軒のコンクリート建築がある。新築のとき壁面塗装されていたものが剥げたのか、それとも元々こういう造りだったのか、コンクリート素地のままの、地蔵みたいな灰色をした建物だった。この建物の最初の所有者であったとされる男は、外国人住宅の住人に向けた仕立てやクリーニング業を行っていたらしい。これはペンキで描かれていた店名とドルだての価格表によって知ることができる。それらは建物の外壁の面に直接書かれていて、ほとんど消えているけれども注意深く見れば辛うじてうっすらと読み取れた。
 男は、まだここが米国領だったころに家を建てて仕事をはじめた。男は子どものころに戦争を経験している。そのうえ男の父は幼いころに、沖縄全体を襲った大規模な飢饉にあっていた。どちらのときにも大勢の人間が命を落とした。男の父は男が生まれてすぐに戦死したけれど、戦後、残された男は長じてから母を病気で亡くした後、店を持ち働きどおして所帯を持ち、年老い、先に妻が、そうして間もなく男のほうも他界した。夫婦は長生きだった。男は沖縄の一部の人間がとても長寿であることを、他のそうでなかった多くの人間の命を数日、数年ずつ引き継いだからだと、本気で信じているふしがあった。男のひとり娘は成人してから、国を超えた結婚をしたあとカナダに移住していて、男がかつて店舗兼住宅として建てたこの建物を、男の死後まったく執着することなく手放した。このことは、建物を比較的安価で手に入れることにつながったので、次の所有者にとっては大変にありがたいことだった。
 この建物を次に所有した人間、つまり現在の持ち主はよりさんという年老いた女性だった。順さんはここ沖縄で生まれ育った人ではない。若いころから民俗学を長く研究していた学者で、港川にはもう充分に人生を送ってきてからやってきたらしい。ここに来る前は全国各地で主に民族風習や風俗といった類のものを集めて調べていた。けれどそれらの研究は現地での聞き取りなどのフィールドワークに頼るしかないので、都合、順さんは日本のあちこちを渡りながら暮らしていた。しばらくそうして流浪の生活をしたのち、移動研究ばかりの生活を終え沖縄の資料を収集することに集中していくと心を決め、人生の最終的な場所として、沖縄に住居を構えたのだそうだ。ただ、この建物自体は順さんの住居ではない。順さんはこの建物からそれほど離れていない場所に娘のみちさんと暮らしている。途さんは長いこと順さんとは別の場所、おそらくは関西の都市部に暮らしていたけれど、順さんがこの建物を手に入れ、島に暮らすようになって十年ほど過ぎ、順さんがかなり年老いたあとになってやってきた。そのとき途さんの夫はすでに病気で他界していて、息子、つまり順さんの孫ふたりはどちらももう結婚して別々の家庭を築いている。途さんは沖縄に来る前から歯科医をしていて、移り住み、暮らし始めてからすぐ、住んでいるマンションに近い住宅街で小さな歯科を開業している。
 順さんの手に入れた建物の入口にかかった縦六十センチほどの琺瑯看板には、掠れてはいるものの、しっかりしたレタリングで『沖縄及島嶼とうしょ資料館』と書かれていた。だからこの建物は、ひとまずはこの島の資料館ということになっている。ただここの実態はあくまで順さんの私的な資料を保存しておく場所であって、建物のさほど多くない部屋のすべてに隙間なく詰まっているのは、とくに誰に向けてのものでもない雑多な情報の蓄積だった。具体的には、島の現在までのなりたち、たとえば戦争前後から生きている人の、あるいは親の親というもっとずっと昔の人たちから聞かされていたことの、また聞きも含めた話を集めてきた資料の貯め置き場、長い時間をかけて集めてきて、そうして増やしたもので、順さんの人生すべてでもある。
 朝になると順さんは、途さんの車に乗せられて資料館にやってきて、時間が来ると、診療を終えて迎えに来た途さんの車に乗せられて帰ってゆく。

(続きは本誌でお楽しみください。)