立ち読み:新潮 2020年7月号

天使も踏むを畏れるところ/松家仁之

 黒澤明の「生きる」が封切られてまもないころ、庁舎の食堂で隣りあわせた渡辺が、「『生きる』、見たか」と聞いてきた。「見たよ」と杉浦は答えた。
 来春小学生になる息子を連れて、有楽町の映画館まで見にいったばかりだった。
 志村喬が演じる平凡な市役所の課長が、胃癌で余命幾ばくもないと知り、途方に暮れた末、残された時間で自分の生きたあかしを残そうと決意する。汚水が溢れだし不衛生きわまりない暗渠を整備して、なんとか公園にしてほしい――貧しい暮らしに喘ぐ主婦たちからの切羽詰まった市役所への陳情は、各部局をたらい回しにされた挙句、放置されたままだった。たらい回しの発端をつくったこの課長は、陳情書を引っぱりだし、小さな公園の実現へと憑かれたように奔走し始める。
 そこから場面は五ヶ月後。課長の通夜の席へと飛ぶ。
 小公園完成の手柄を死者から奪おうとする助役をはじめ、お追従や思い込み、死者への揶揄までが口にされ、役所でのそれぞれの立場が浮き彫りになる。完成するまでの課長の働きは、実際はどのようだったのか。回想や主張を検証するように折々の場面が現れ、まわりがたじろぐほどだった課長の執念と言動が再現されてゆく。
 通夜はつづき、夜は更ける。死者の目覚ましい働きを低く見積もろうとする役所からの参列者たちに、ひとり憤慨し異を唱える部下。それをセンチメンタリズムだと批判する上司。ときどきクローズアップされる課長の遺影は、「死人に口なし」だ。
 完成した小公園のブランコに揺られ、雪に降られるまま「いのち短し、恋せよ乙女」と歌う課長の姿。その姿を目撃しながら酔っ払いと勘違いしていたと詫びにやってくる警官。しだいに通夜の席は乱れ、酔いもまわり、課長の死を無駄にするな、あとにつづけとうわごとのようなことばが飛びかいはじめる。しかし、後日の役所の光景は、以前となにも変わらない。それまでどおりの日常がただ繰りかえされる。
 なんともやるせない映画だった。
 人間は簡単に変わる。そして人間は簡単には変わらない。人の底の浅さが生む悲喜劇をその両側からじっと観察し、遠慮なく映しだしてゆく黒澤の演出は、演劇的な誇張がつよい。日本人はこんなに言いたい放題には喋らない。思っていることをそのまま口にすればこうなる、という演出だからこそわかりやすく、見る者の胸のつかえがとれるのかもしれない。
 市役所と建設省では建築の規模も予算も桁がちがう。しかしわかりすぎるほどわかる部分もある。暗渠の問題を選んでいることや、市役所のたらい回しのエピソードなどは実際の事例を調べて脚本にしているのだろう。いかにもありそうな話だ。未舗装のまま残された都内の道路の惨状も、最悪だった時期の様子をよくとらえている。市役所の机の周囲にこれでもかとばかり書類の束を積み上げているのはどう見ても誇張だが、仕事の澱を目に見えるようにするための大事な小道具で、書類の束に現実味がでるように、かなりの手間がかけられているのがわかる。
 父としての課長と、その息子の致命的なすれちがいのいきさつが描かれるたび、隣の息子が気になった。これは幼稚園児に見せる映画ではなかった、と暗がりのなかでおもう。「まだ早いんじゃない?」と妻が言ったとおりだと杉浦は反省した。
 黙って駅に向かって歩いていると、息子のつとむが「よかったね」と言った。「そうだね……どこがよかった?」と杉浦はさらりと聞いた。功はしばらく考えてから、「雪の降るところ。雪がきれいだった。でも寒そうだった。かわいそうだったね、おじいちゃん」と言った。
 渡辺がカツ丼定食の最後の一口を頬張っているあいだ、杉浦は「夜の雪がきれいだったな」とだけ言った。目だけで肯くようにしながら渡辺はお茶をがぶ飲みした。「あざとい演技の応酬だけどね。まあ、見ちゃうわな。しかしまあ、黒澤はお茶漬けの味じゃないね」するとにわかに志村喬のしわがれ声になり、「私には時間がない」と言いながら席を立つと、片手をあげ、食堂を出ていった。
 一級国道の路線を指定する政令が公布されたばかりで、道路局の渡辺は忙殺されていた。朝鮮動乱特需で経済が活況を呈することとなり、自動車輸送も増加し、国民の自動車保有台数も飛躍的に伸びていた。自国の戦争で破壊され、隣国の戦争で復興する。なんとも言いがたい事態が勢いづいて進行していた。
「時間がない」とは誰もが言いたいセリフだった。どれもこれも時間の足りない案件ばかりで、冗談や軽口を飛ばすことでしか癇癪のタネを中和し憂鬱をおさえるすべがなかった。口下手な杉浦はそれが苦手だから、ただ無表情になる。「忙しくなるとすぐ顔に出るんだから」と妻の陽子に言われ、そうなのかと気づく。陽子は言いたいことをすぐに言う。よく笑い、映画館では泣く。まるで正反対の性格だった。そういえば、「生きる」に登場していた小田切みき演じる若い女性は、おもったことをそのまま言う遠慮のない性格で、絶望の底にあった課長を最後の行動へとひっぱりあげる役割を担っていた。しかし陽子はあそこまで天真爛漫ではない。
 食堂から席にもどろうとする廊下で、すれ違ったはずの課長が「あ、そうだ」と声をあげ戻ってくると、杉浦の背中に声をかけてきた。建設省の廊下は誰もがこれみよがしに急ぎ足で歩くから、気をつけないとぶつかりそうになる。
「そうだった杉浦君。折り入って相談したいことがあるんだ」
 ふりかえった瞬間、胸のあたりに嫌なものがきざし、警戒させるなにかが動いた。「はい」と言うのがやっとで、自分の顔がみるみるかたくなるのがわかる。

(続きは本誌でお楽しみください。)